第35話:噛み合わない歯車と、異世界初の「JIS規格」
組織という歪なシステムが急に膨れ上がるとき、最初に悲鳴を上げるのは決まって泥にまみれる現場だ。
午前二時。静まり返った蔵の分厚い木扉が、立て付けの悪い悲鳴を上げて蹴破られた。
「マスター!頼む、知恵を貸してくれ!このままじゃ王都のドワーフどもが全員、互いの頭を玄能でぶち割り合って殺し合いになっちまう!」
「マスター、助けて……!現場の図面が、ただの汚れた紙屑になってるのよ……!」
飛び込んできたのは、顔中を黒い煤とギトついた獣脂で汚したガラム親方と、夜風で髪をメチャクチャに振り乱した宮廷建築士のピアだった。抱え込んだ巨大な羊皮紙の束がガタガタと震えている。二人の目は、何日寝ていないのか白目がどす黒く血走っていた。
「おいおい、夜中にむさ苦しい声を出すな。耳の奥がチクチクするじゃろ」
カウンターの端で、ポテトチップスを湿気た音を立てて齧っていた大魔導士オルドが、不機嫌そうに長い耳を伏せた。安物の缶チューハイに挿したストローを不快そうに噛み潰している。
「ガラムさん、ピアさん、ひとまず座ってください。今度は製造ラインですか」
四十半ばを過ぎてすっかり白髪が混じり始めた髪をかきむしりながら、坂本はぬるくなった麦茶を二人へ差し出した。ガラムはそれを泥水のように一気に喉へ流し込むと、油で汚れた拳をカウンターへ叩きつけた。
「ラインなんて生易しいもんじゃねえ!上からの命令で水道管やら馬車の車輪やらを『大増産』しろって言われて、街中の鍛冶場を総動員したんだ。……ところがだ、いざ出来上がった鉄の部品を集めて組み立てようとしたら、ネジの溝も、板の厚みも、穴の径も、全員バラバラで少しずつズレてやがる!」
「そんな……。図面はちゃんと渡したのでしょう?」
「渡したわよ!」
ピアが自分の頭を両手で挟み込んで叫ぶ。
「でも、あの頑固者たちがそれぞれ『俺の親方の教えじゃ、この長さは指三本分だ』とか『我が家に伝わる黄金比じゃ、この溝はこれくらいが一番美しい』って、自分の【勘】だの【秘伝】だので勝手に手を入れるのよ!全く噛み合わないから、現場で職人たちが一本ずつヤスリで削って合わせてるの!納期なんてあってないようなものよ!」
要するに、属人化による互換性の喪失。古典的で、一番タチの悪い物だ。個々の腕がどれほど一流でも、大量生産という力技をかける段階で、その「こだわり」が致命的な足枷になる。
「……なるほど。わかりました」
坂本は脂ぎった鼻の頭をクシャクシャのティッシュで拭い、足元に置いてあった薄汚れた工具箱を引き寄せた。ガリ、と嫌な金属音を立てて机に並べたのは、液晶に0.01ミリ単位の数字が浮かぶデジタルノギス。それと、ホームセンターの安売りで買った、同じポリ袋に入ったM6のボルトとナットの山。
「ガラムさん。どれでもいいです。その袋から適当にボルトを一本、別の袋からナットを一個取って、回してみてください」
「あ?なんだこの、気味が悪いほど滑らかなネジは。……どれ」
ガラムは熊のような太い指でそれらを掴み、強引に噛み合わせた。くるくると軽い音を立て、最後はカチリと冷たく収まる。
「……ん?じゃあ、こっちの別のやつは……」
不審そうに、ガラムがまた別の袋からランダムにボルトとナットを掴み、再び合わせた。くるくるくる、カチッ。
「な……ッ!?なんだこれはぁぁぁっ!?」
衝撃のあまり椅子をひっくり返し、ガラムが床に尻餅をついた。
「おい、マスター!これ、どんな高等な『空間固定の呪術』を仕込んでやがる!?なんで違う袋から適当に選んだ別々のネジと穴が、寸分の狂いもなく完璧に同じ位置で噛み合うんだよ!?鍛冶神の奇跡か!?」
「いいえ、魔法でも奇跡でもありません」
坂本は冷蔵庫から、自販機でよく見かける冷えた缶コーヒーの微糖を取り出して二人に手渡し、おつまみの柿の種の袋を歯で引き破った。
「国が【規格】を完全に統一しているからです。私の世界にある、産業を支える『JIS規格』、そして世界標準の『ISO』というシステムです」
「キカク……?ルールだと?」
ピアが丸い目をさらに見開く。
「ええ。ガラムさん、職人の『勘』や『秘伝の技』は確かに素晴らしい芸術品を生みます。でも、国を豊かにするためのインフラ構築や大量生産に必要なのは、芸術性じゃない。【誰が、どこで、いつ作っても、寸分違わず全く同じサイズになる互換性】です」
裏が白いチラシの切れ端に、ボールペンで「1メートル」という基準の概念と、ネジの溝の間隔の均一なグラフを殴り書きしていく。
「これまでは『親方の手のひらの大きさ』が基準だったからズレたんです。今すぐ、全ギルドに『長さ・重さ・溝の間隔』の絶対的な国家基準を叩き込んでください。そして、これを見てください」
0.01ミリを正確に指し示す金属製ノギスを、ガラムの目の前に突きつける。
「この測定器を基準にして、全工房に『標準ゲージ』……この穴に通れば合格、通らなければ廃棄とする金属板を配る仕組みを作ります。職人のプライドを『秘伝の技』ではなく、『規格を完璧に守る精度』へと強制的にシフトさせる。規格さえ統一されれば、スラムの子供が作った部品と、ガラム親方が作った部品が、現場で完璧に合体します。ヤスリで削るロスタイムはゼロになる」
「個人の技に頼る時代は……終わったというのか……」
ガラムは、完璧に締まったネジを見つめ、己が培ってきた何百年分もの職人の概念をへし折られ、呆然と立ち尽くしていた。
「ひっ、ひっひ!これまたえげつない仕組みじゃな!」
特等席のオルドが、柿の種をポリポリと小気味よく咀嚼しながら、嬉しそうに耳を震わせた。
「誰が作っても同じになる、か。それはつまり、技術の『民主化』じゃ。職人の神格化を剥ぎ取り、国そのものを巨大な一つの『工場』に変える禁忌の術式よのぉ」
坂本は何も言わず、お土産として日本の金属製ノギスをガラムの頑丈な手に握らせた。ガラムはそれを伝説の聖剣でも授かったかのように見つめ、這うようにして蔵を去っていった。
深夜、一人になった蔵で、ノートパソコンの青白い光が顔を照らす。日本側のネットショップの注文画面。段ボール、梱包資材、すべてが当たり前のように同じサイズで届き、完璧に収まる日本の日常。
手元のぬるくなった麦茶を飲み干す。喉の奥に張り付くような苦味が、やけに現実味を帯びて残っていた。




