第34話:限界を迎えた穀倉地帯と、中央から来た農政官
スラムが小綺麗になり、妙な音楽が鳴り響くようになってから、王都の空気は変わった。だが、底辺がどれほど色めき立とうが、この国という巨大な肉体が抱える「壊死」は、もっと深いところで始まっていた。
深夜二時。蔵の板床を揺らすのは、いつもの酔客とは違う、硬く冷たい足音だった。カランカラン、と乾いたベルの音が室内に響く。
「マスター……。今夜は、スラムの縄張りなんて小さな話じゃない。国が、この大地そのものが死にかけている」
現れたアレンの顔は、心なしかどす黒く煤けて見えた。いつもなら仕立ての良い上着を気にする男は、襟元の歪みすら直していなかった。その後ろから這い入るようにして入ってきたのは、泥と汗で上質なシルクの官服をドロドロに汚した男だった。三十半ばといったところか。目は血走り、爪の間に黒い土を詰まらせている。
「随分と派手に汚れておるな。上級貴族の畑でも燃えたか?」
カウンターの隅、オルドが冷えた麦茶の入ったコップを弄びながら、長い耳を不快そうに伏せた。
「フレイルだ。直轄領の、すべての農政を握っている」
「農政総監の、フレイルです。坂本殿……アレンから、ここにはおぞましい知識を持つ男がいると聞いた。もう、本当に、土が死んでしまう……!」
男はカウンターに両手を叩きつけた。手のひらから、酸っぱい肥溜めの匂いと、腐った葉の強烈な悪臭が立ち上る。坂本の鼻腔を容赦なく刺した。
「フレイルさん、まずは息を吐いてください。何があった」
坂本の声には、同情も驚きもない。
フレイルの口から漏れ出たのは、泥のような絶望だった。数百年もの間、王都の胃袋を満たしてきた一等地の穀倉地帯。そこで彼らは、「一番高く売れる」というだけの理由で、毎年、毎年、『王冠麦』の種だけを蒔き続けてきた。土が何を求めているかも考えず、ただ目先の黄金色の絨毯だけを貪ってきた。そのツケが、今、一つ一つ噴き出している。
「どれだけ極上の肥えを混ぜようが、芽は出た先から黄色く腐る。地中を掘れば、見たこともない白くて悍ましい虫の幼虫が、数百万、数千万と蠢いて根を食い荒らしているんだ!神官どもは『大地の神の呪いだ』と抜かして、一日中香を焚いて祈祷している。だが、このままでは今年は大丈夫だが、来年は冬が来る前に、民は道端で干からびた犬のように餓死する……!」
「呪い、か」
オルドが喉の奥で痰を鳴らすように笑った。
「神官の祈りで腹が膨れるなら、今頃この世に飢えなどないわい」
坂本は、男の焦燥を脳内で冷徹に解体していた。日本の実家、あの狭い庭で祖父がぶつぶつ文句を言いながら耕していた家庭菜園の光景。そして、IT企業でクソ真面目に叩き込まれた、投資の「リスク分散」のロジック。それらが、目の前の土壌の腐臭と重なる。
「……目先の数字だけで、同じシステムを限界まで回し続けた。ただの構造的な破綻ですね」
坂本は台所で、井戸水で冷やしておいた痛いくらいに冷たいキュウリを掴みだした。まな板に叩きつけ、リズミカルに包丁を入れる。トントン、と硬い音が響く。それを、日本で買ってきた塩昆布の黒い塊と、少々のごま油で力任せに和えた。ガラスの器に盛り、渋い緑茶を添えてフレイルの前に突き出す。
「食ってください。頭がのぼせている」
「これは……瑞々しいが、なんという、妙な塩辛い海草の匂いだ……」
フレイルは躊躇しながらも、泥のついた指でキュウリを口にねじ込んだ。
ポリッ、ボリボリボリ。
「っ――!?」
男の喉が大きく鳴った。噛むたびに弾ける強烈な水分が、口内の乾いた粘膜を潤していく。塩昆布のえぐみと旨味が、疲弊しきった脳の神経を直接覚醒させる。
「冷やしキュウリの塩昆布和えです。フレイルさん、はっきり言います」
「神の怒りでも何でもない。同じ場所に、同じ作物だけを長年植え続けたせいで、土の中が致命的に狂った。『連作障害』という名の、自業自得のシステムエラーです」
「連作……障害……?」
「土も組織と同じです。王冠麦という単一の種だけを植え続ければ、土の中の特定の栄養素だけが徹底的に枯渇する。それだけじゃない。その麦の根が好む特定の病原菌や害虫だけが、何年もかけて地中に限界まで濃縮され、繁殖した。今の直轄領は、いわば土が『過労死』して、毒液を吐き出している状態です」
「土の……過労死……。我々が、自らの手で大地を殺していたと……?」
農業のプロを気取っていた男のプライドが、坂本の乾いた声によって、呆気なく粉砕された。
「ひっ、ひっひ!」
オルドがキュウリをボリボリと小気味よく噛み砕きながら、机を叩いた。
「こいつは愉快じゃ。同じ奴隷を休みなく鞭打てば、いつか過労で死ぬ。マスター、お主の言うことは、術式の暴走の理屈と全く同じじゃわい」
「その通りです、オルドさん。だから、対策も単純だ。今すぐ、その直轄領での麦の栽培をすべて止めろ」
「なっ、中止だと!?そんなことをすれば、それこそ主食がなくなって国が……!」
アレンが悲鳴のような声をあげるが、坂本は一瞥もしない。
「一時的なローテーションです。これからは、日本の農家が何百年も泥にまみれて実践してきた持続可能なロジック――【輪作】を入れます」
坂本は使い古しのノートを広げ、ボールペンで乱雑に円を描いた。
「土を蘇らせるために、違う特性の作物を順番に植え替える。まず第一段階として、地中に窒素を戻す『マメ科の植物』を植える。こいつらの根に住む菌は、大気中の栄養を土に固定する天然の工場だ。次に、根を地中深くへと突き刺し、硬くなった土を内側からぶち壊す『根菜類』を植える。これを数年サイクルで回す。栄養の偏りは消え、麦を狙う害虫は餌を失って餓死する」
「ただ同じものを作ればいいわけではない……。作物を、役割で管理する……。これが、本物の農政か……」
フレイルは、坂本が投げ出した「作付ローテーション仕様書」の紙切れを、宝物のように震える手で拾い上げた。そこには、神官の呪文などより遥かに泥臭く、しかし確実な「土壌のデバッグ手順」が殴り書きされていた。
「これがあれば、飢えを殺せる。神への祈りなど、最初からいらなかったんだ」
「ええ。私の実家にあった、ただの基礎知識です。データは嘘をつきませんよ」
坂本は笑わなかった。
深夜の、カビ臭い蔵の片隅。国家滅亡という大層な問題が、日本のチープな家庭菜園の知識によって、淡々と書き換えられていく。アレンとフレイルが、重い足取りのまま、だが何かに取り憑かれたような目で夜闇へ消えていくのを、坂本はただ気だるげに見送った。
オルドが残ったキュウリの汁をずずっと啜る音が、狭い店内に嫌に大きく響いていた。




