第33話:異世界初の「夏フェス」と、屋台のソースマジック
週末の夕暮れ。スラムの広場は、熱気と、煤けた人間の体臭で満ち満ちていた。
アレンが書類を回し、ピアが仕切った『スラム福利厚生大音楽祭(通称:スラムフェス)』。広場には、文字の読めない民でも一目でわかるよう、坂本が日本の安っぽい看板を真似て作らせた、派手なフラッグがはためいている。中央の木製ステージでは、リュカがリュートのペグを静かに回していた。
だが、ステージが始まる前から、広場は別の何かに支配されていた。
――ジューーーーーッ!!!ガシャガシャガシャ!
「おい、キャベツをもっと放り込め!」
「あの茶色い『魔法の液体』をケチるな!」
ガラム親方のドワーフたちが、即席の巨大鉄板の前で、汗だくになりながらヘラを振るっている。坂本が叩き込んだ、『ソース焼きそば』の煙が、白く重く立ち込めていた。
焦げるソースの甘酸っぱい、暴力的な匂いが、風に乗って王都の端まで届きそうな勢いで広がっていく。
「なんだこの匂いは……腹が減って死にそうだ!」
「あの茶色い紐をくれ!早くしろ!」
匂いに釣られた住民や、噂を聞きつけた市民が、長蛇の列を作って互いを押し退けている。坂本が用意した、ただ割るだけの割り箸を使い、彼らが麺を口に放り込んだ瞬間、あちこちで獣のような声が上がった。
「美味い!!この赤い根っこのシャキシャキした酸味が、油と絡んで止まらない!」
財布の紐は、匂いという最強の暴力の前に完全に消し飛んだ。焼きそばは飛ぶように売れ、工房の月間売上グラフは、垂直に跳ね上がっていった。
そして、夜の帳が降りた頃。数千の松明が広場を赤く染め、魔導具の光がステージのリュカを照らし出した。
リュカが弦を強く弾く。美しいイントロが、ざわめきを切り裂いた。貴族に媚びる古い歌ではない。紡がれたのは、泥にまみれ、虐げられ、それでも「今、ここで自分の手で飯を食っている」という、彼らの生々しい現実そのものだった。
「俺たちの歌だ……」
誰かが呟いた。数千人の背筋に、ゾクゾクとした鳥肌が走る。
そして、広場の熱量が臨界点に達した瞬間――完璧に計算されたロジックのタイミングで、リュカの声が、夜空を引き裂くように跳ね上がった。
【サビ】の炸裂。
「「「うおおおおおおおおおおおおお!!!」」」
地鳴りのような歓声が、スラムの煤けた空気を震わせた。誰もが隣の汚い奴と肩を組み、大粒の涙を流しながら、喉がちぎれんばかりの声で大合唱している。パトロンの金に頼らず、大衆の心を芯から掴み取り、数千人を一つに繋ぐ。異世界初のポップスターが、その泥の中に誕生した瞬間だった。
深夜二時。祭りが終わり、蔵の分厚い扉が、重々しく開いた。
カラン……カラン……。
「マスター……やったよ……」
完全に声を枯らし、喉から血の匂いをさせたリュカが、泥のように椅子へ崩れ落ちた。その隣では、売上金が詰まった、底が抜けそうな麻袋を抱えたピアが、放心したように座っている。
そんな二人を、カウンターの隅から、実に愉快そうに見つめている影があった。オルドだ。彼はスラムから魔法で掠め取ってきた、冷めかけた焼きそばのパックをつつきながら、キンキンに冷えた缶ビールを喉へ流し込んでいる。
「見事な祭じゃったな、マスター。数千人の精神を一つの波長に同調させ、熱狂へ叩き落とす。王宮の禁術にも、あれほどの精神操作はないぞ?それを『紙の上の数式』だけでやってのけるとは、お前、本当に人間の皮を被っているのか?」
オルドは青のりを前歯につけたまま、空き缶を机に置いた。大魔導士としての歪んだ視線が、坂本の本質を値踏みするように見つめている。
坂本は小さく苦笑すると、喉を潰したリュカの前へ温かいマグカップを差し出した。
「お疲れ様でした。喉のケアです」
日本で仕込んだ、はちみつレモンジンジャーティー。優しくはちみつが香る琥珀色の液体を、リュカがそっと口に含む。レモンの酸味と生姜の鋭い熱が、酷使された声帯をじんわりと麻痺させるように包み込んでいく。
「あぁ……生き返る……」
「おいマスター、ワシにもその生姜の茶を寄こせ。口の中が濃厚極まることになっておる」
オルドが空のカップを突き出す。坂本は「はいはい」と、低いテンションのまま手際よくそれを淹れてやった。
坂本は、疲れ果てたピアには冷えた缶ビールをプシューッと開けて手渡し、ただ静かに微笑んだ。
「これでスラムは、施しを乞うだけの死に体ではなくなった。自分たちで稼ぎ、自分たちの音楽で踊り、明日の生きる糧を毟り取る。――王都で一番しぶとい街になりましたね」
「ふむ、これからはスラムではなく『音楽の街』とでも呼ぶべきかのぉ」
オルドははちみつレモンをズズッと啜り、その優しさに長い耳をへにゃりと垂らした。
底辺の人間たちの連帯感は、この夜を境に、二度と引き剥がせないものとなった。
坂本は、幸せそうにビールを煽るピアと、リュートを大切そうに抱えるリュカを横目に、手元のノートPCを開いた。画面に映し出されているのは、日本側のネットショップのレビュー画面だ。スラムの活気がそのまま乗り移ったかのような、ミレーヌのデザインバッグへの熱狂的な絶賛コメントが、今夜も呪いのように、ただ淡々と、下へ下へと流れ続けていた。




