第32話:泥の中のソウルミュージックと、「出稼ぎフェス」
深夜二時。蔵のドアベルが、けたたましく鳴り響いた。
「マスター!スラムの連中が、みんな泣いて……!」
息を切らせたリュカが飛び込んでくる。その後ろから、作業着の袖をまくり上げたピアが、信じられないものを見たような顔で入ってきた。
「夜中にうるさい小僧どもだ。ワシの夜食を邪魔するな」
オルドが、しるこサンドの袋に、指を突っ込んでいる。
「本当に凄かったのよ」
ピアがカウンターに突っ伏した。
「最近、みんな真面目に働きすぎて、顔が死んでたの。でも、リュカが広場で歌い始めた瞬間、何かが弾けた」
坂本は、冷たい麦茶を二人の前に滑らせた。定時退社、小綺麗な現場。それらを与えられても、泥水をすすってきたスラムの民は、急な「まともな暮らし」の重圧に、精神のバランスを崩しかけていた。その事態を、坂本はすでに読んでいた。
「どう歌いましたか」
「マスターに言われた通り、神話の歌は全部捨てた。J-POPのやり方で、まずは俺たちの冷たくて、暗い、ドブネズミみたいな過去を、静かに歌ったんだ。そしたら……」
リュカはリュートを握りしめ、胸を叩いた。
「あのタイミングで、【サビ】を叩き込んだ。――『それでも今日を生きる俺たちは美しい』って。そしたら、何百人もの大人が、ボロボロ涙を流して肩を組み始めたんだ」
かつて、日本のブラック企業でクリエイターの精神を削り、またそれを繋ぎ止めてきた、中間管理職としての冷徹な記憶が、その脳裏をよぎる。
「音楽は、貴族の耳の保養じゃない。声を持たない底辺の【メンタルケア】の道具です。人間というシステムを回すには、娯楽という名の高効率な燃料が必要なんですよ」
「相変わらず、人の動かし方が汚いのう、マスター」
オルドが今度はポテトチップスをボリボリと咀嚼する。
「衣食住の次に、熱狂を配るか。王都の阿呆どもには真似できん統治じゃ」
「ええ。ですから、すでにアレンには稟議を通す一歩手前まで話をつけました」
坂本はノートPCの画面を二人に見せた。そこには、日本の工場労働歌のデータを応用した、大規模なイベントの仕様書が立ち上がっている。
「今週末、スラムの全ラインを止めます。王宮公認の『出稼ぎ音楽祭』――夏フェスです」
「夏フェス……?」
ピアが身を乗り出す。
「そのためには、絶対に欠かせないものがある。ピアさん、ガラム親方に頼んで、鉄くずでいいから巨大な『鉄板』を数枚、大至急焼かせてください。最高の『フェス飯』を仕込みます」
坂本は、台所に入り日本で買い込んできた業務用濃厚ソースの巨大なボトルを取り出し、おもむろにフライパンを火にかけた。
ジュウウウウウウウッ!!
キャベツと豚肉、そして蒸し麺。特製ソースを回し入れた瞬間、蔵の中に、暴力的とも言えるほどの、酸っぱくて、焦げたソースの匂いが爆発的に漂い始めた。
「な、何この匂い……!?腹の底が、今すぐそれを寄こせって暴れてるんだけど!」
ピアの口から、よだれが垂れそうになる。
「ソース焼きそばです。青のりと紅生姜を乗せてどうぞ」
二人は競い合うように麺を口に運んだ。濃厚なソースの油、キャベツの甘み、紅生姜のピリッとした酸味が、深夜の脳天を直接突き刺す。
「美味い……美味すぎる!五感が殺される!」
「これ、広場で売ったら、匂いだけで全員狂うわよ!」
ピアのビジネス脳が、ソースの匂い一発で完全にバーストしていた。
「ワシの分も残せ!」
オルドがマジックハンドを伸ばして皿を奪っていく。賑やかなカウンターの片隅で、坂本は徹夜で、フェスのレイアウトと屋台の配置図を、静かに書き換えていくのだった。




