第30話:異世界アートの日本進出と、真夜中の「株主総会」
パクリ屋の自滅という無残な幕引き。それ以降、スラムの「王立ホワイト工房」に漂う空気は、異様なまでの熱を帯びていた。若きカイルをはじめとする職人たちの、荒れて硬くなった指先。彼らが深海のような青に染められた国産牛革に、寸分の狂いもなく、あのミレーヌの緻密な『聖獣』を型押ししていく。
それらはピアの細い腕で蔵へと運び込まれ、坂本が静かに最終検品を行う。バリを削り、金具の噛み合わせを調整し、コバを磨き上げる。最後に、日本の古い物置から引っ張り出してきた保革オイルを、指の体温で革の奥深くまで刷り込んでいく。並んだのは、ラグジュアリーバッグが5個、そして職人たちの針目が美しく並ぶ長財布が10個。
深夜零時を回る直前。坂本はパソコンのブルーライトに照らされながら、ECサイトの出品ページのテキストを推敲していた。モノが溢れかえり、誰もが「何か」に飢えている現代日本。そこで人を動かすのは、製品の機能美ではない。その背後にある、泥臭い「ストーリー」だ。坂本はキーボードを叩く指を、意識的に慎重にコントロールしていく。
『【数量限定・刻印シリーズ】高品質な国産牛ヌメ革を使用。特殊な独自技法により、光の角度で表情を変える神秘的な深海色へ仕上げました。地元の作家が、アンティークの「古い異国風の金属刻印」を用い、中世の幻獣を彷彿とさせる緻密な現代グラフィックアートと融合させた、世界に二つとないプレミア作品です』
「異世界」などという、安っぽいファンタジーの単語は一文字も使わない。だが、目ざといマニアたちの知的好奇心と、優越感を刺激する「設定」を、現実の隙間に滑り込ませる。
「……よし。出すぞ」
零時ちょうど。乾いたクリック音が、静かな蔵に響いた。
その瞬間、サーバーが悲鳴をあげた。画面の更新がピタリと止まり、数秒の沈黙の後、通知音が蔵の空気を震わせた。
「ピコーン、ピコーン、ピコーン……」
バッグが各20万、財布が各10万。合計200万円に達する在庫が、文字通り、数十秒で画面から消え去った。
「……本当に、消えたか」
坂本は乾いた喉を鳴らし、スマートフォンの画面をスクロールした。ネットの片隅は、すでに一部の熱狂的なコレクターたちの阿鼻叫喚で埋め尽くされている。
『嘘だろ、カートに入れた瞬間に消えた……』
『バッグ買えた。写真を見ただけで指が震える。この型押し、中世の禁書に描かれた悪魔の絵みたいだ。無地の時も凄かったが、このストーリー性は完全にアートの領域に入ってる』
一晩で手に入れた、200万円という現実味のない数字。坂本は目頭を強く押さえた。二年前、背中に冷たい汗をかきながら、すべてを失ってこの限界集落の古い実家に逃げ込んできた。あの時の、藁にも縋るような絶望。それがいま、娘の将来の教育費という、心に刺さっていた棘を綺麗に抜き去ろうとしている。
「……ありがとうございました」
液晶画面の向こうにいる顔も見えない買い手たちと、そして、今もスラムの片隅で寝息を立てているであろう職人たちに向けて、坂本は暗闇の中で深く頭を下げた。
その日の深夜二時。蔵のカウンターには、この世のものとは思えない奇妙な光景と、張り詰めた沈黙が同居していた。
「おい、マスター!待ちくたびれて首が伸びきってしまったぞ!過去最高の黒字とやらを叩き出したのだろう!早く美味いものをよこせ!」
すでに『冷え切った缶ビール』をプシューと小気味よく開けていたオルドが、待ちきれない様子で空の皿を叩く。その隣には、少し小綺麗に着飾ったピアと、相変わらず手垢で汚れたスケッチブックを抱えたミレーヌが座っている。そして、カウンターにはカセットコンロが置かれている。
「はい。お待たせしました。今夜の株主総会のメインディッシュです」
坂本が台所から重そうに運び出してきたのは、煤けた南部鉄器のすき焼き鍋。そして、大皿の上にこれでもかと敷き詰められた、A5ランクの黒毛和牛。赤身の赤と、芸術的なレース編みのように入り組んだ白い脂。
「な……なんじゃ、この肉は……肉なのか、これは……?」
オルドの長い耳がぴくりと跳ねる。
鍋を火にかけ牛脂を滑らせると、ジューという、胃袋を直接掴むような音が上がった。熱せられた醤油と砂糖が焦げていく、甘く濃厚な匂いが、蔵の湿った空気を一気に支配する。極上の肉を滑らせ、赤みがほんのりとピンク色に変わる。その瞬間、坂本はそれを、各々の小鉢に用意された「ある液体」へと滑り込ませた。
「肉が熱いうちに、この生の卵にたっぷり絡めて食べてみてください」
その言葉が、蔵の空気を一瞬で氷結させた。
「……え?マスター、今、なんて言ったの?」
ピアの顔からスーッと血の気が引き、長い耳が警戒するようにピンと直立した。
「な、生……?火を通していない、そのドロドロとした内臓の液体を……そのまま口に入れろと……?」
ミレーヌはフォークを握りしめたままガタガタと震え、本気で怯えた目を坂本に向けた。
この世界において、生卵を口にするのは、狂人の沙汰か、あるいは自殺志願者のすることだ。衛生環境の劣悪なこの地では、生卵は激しい胃痛と高熱、そして死を意味する「不潔の象徴」だった。
「正気か、サカモト殿」
アレンまでもが椅子をガタつかせて立ち上がった。
「いくら貴殿の世界の珍味だとしても、生卵は看過できん。疫病にかかるぞ!」
怯え、拒絶する若者たちを前に、オルドだけは一人、薄笑いを浮かべてビールをゴクリと飲み干した。かつてバルドス公爵がここでつくねと生卵を貪り食い、大絶賛していた光景を彼は特等席で目撃していたのだ。
「ひっ、ひひ……。若造どもめ、何をそこまで怯えておる。これだから経験の浅いガキは困るのう」
「オ、オルドさん!?何を言っているの、あれは生卵よ!?」
「だまらっしゃい、ピア。これはただの生卵ではない。以前、バルドスのオヤジがここで喰らっていた、あのニホンが誇る『管理されし魔性のタレ』じゃ」
オルドはニヤリと不敵に笑うと、割り下が絡んだ熱々の肉を箸で掴み、どろりとした黄身の中にためらいなく滑り込ませた。そして、一気に口の中へ放り込む。
「――な、なんじゃあ、これは……っ!!」
オルドは衝撃のあまり、カウンターの木肌を拳で叩いた。
「この薄切りの肉との相性は異常じゃ!まろやか……!濃厚なタレの塩気と、肉の暴力的な脂が、この生の黄身によって包み込まれ、信じられんほど優しく、滑らかな至高の味わいへと変化しておる!生臭さなど微塵もない、ただただ濃厚なコクだけが舌の上を支配しておるわい!美味い、美味すぎる!」
「え……嘘……」
ミレーヌはオルドの豹変ぶりに、恐怖よりも好奇心が上回った。坂本はそんな彼女たちを安心させるように優しく微笑み、小鉢の中でツヤツヤと光る黄色い球体を指し示した。
「安心してください。これは日本産です。以前バルドス閣下にもお話ししましたが、私の国では、卵の殻の洗浄から、サルモネラ菌の排除、徹底した温度管理に至るまで、国レベルの基準で1個ずつ管理されています。生で食べることを前提に、限界まで清潔にパッキングされた『システムの結晶』です。絶対に当たりません。大魔導士の結界よりも安全です」
「システムで、生卵の毒を抑え込んでいると……?」
アレンが驚愕の表情で呟く。
「さあ、お肉が硬くなる前にどうぞ」
坂本に促され、ミレーヌは意を決して肉を黄色い液体に絡め、恐る恐る口元へ運んだ。その指先が、緊張でビクリと震える。
「う……嘘でしょ、これ……。噛んでないのに、お肉が、口の中で消えちゃったわよ……!?何この濃厚な甘み……!生卵がこんなにクリーミーで、お肉の美味しさを何倍にも跳ね上げるなんて。美味しすぎて、新しい絵のインスピレーションが、涙と一緒に止まらないわよ……っ!」
先ほどの恐怖などどこへやら、ミレーヌは鼻を真っ赤にしながら、次から次へと肉を卵に潜らせ、貪り食った。
「うう、私も……!美味しすぎるわマスター!毒どころか、天国の食べ物よこれ!」
ピアも長い耳を真っ赤にして悶絶している。
「日本の衛生管理、恐るべし……!」
アレンも、生卵をおかわりしながら凄まじい勢いで鍋をつついている。
坂本は、そんな騒がしいカウンターの光景を、静かに、だが底から温かい微笑みを浮かべながら見つめていた。
彼らが作った作品が日本を揺らし、娘を救い、そしてこうして異世界の住人たちを満たしている。
皆が歓声を上げて鍋を囲む中、坂本はノートパソコンを開き、表計算ソフトの帳簿を立ち上げた。そこには、スラムの住民たちへ送る、過去最高額のボーナス――パックご飯、高級缶詰、冬用の頑丈な衣類、そして笑顔のマークが描かれた石鹸。それらの予算が、力強いキーボードの打鍵音とともに、シートへと書き込まれていく。
蔵の中に広がる、甘く、少し焦げた豊かなすき焼きの匂いは、二つの世界を細く、だが強固に繋ぐラインの成功を祝うように、いつまでも温かく漂い続けていた。




