第29話:「先行者利益」のロジックと、至高のハンバーグ
ミレーヌの描いた「聖獣」を施した牛革のペンケースが、日本と異世界の両方で動き出した。だが、金が動き出す場所には、必ず蝿が集まる。
深夜二時。蔵のドアが、叩き割られんばかりの勢いで開かれた。
カランカラン、ガシャーン!
「マスター!大変よ、大変なことになったわ!」
顔を真っ青にし、肩で息をするピアが飛び込んできた。その手には、王都の露店で売られていたという、見慣れない革の袋が握られている。
「おい、耳障りだぞ。せっかくの煎餅が湿気る」
カウンターの特等席で、醤油の焦げた匂いを漂わせるおつまみの煎餅を齧っていたオルドが、不機嫌そうに長い耳を伏せた。
「オルドさん、のんきにそんなもの食べてる場合じゃないのよ!マスター、これを見て!」
ピアが机に投げ出したのは、安っぽい、薬品の匂いが鼻をつく革製品だった。そこには、ミレーヌのあの誇り高き聖獣が、まるで子供の落書きのように歪んだ線で型押しされている。
「これ、大手商会が売り出したパクリ品よ。別の安い絵描きにミレーヌの絵を真似させて、薄くて酷い革に型押しして、私たちの『半値』で市場に流してるの。スラムの工房の連中も、プライドを泥で汚されたって息巻いてるわ!」
この世界には「著作権」も「意匠権」もない。真似した者の勝ち、奪った者の総取り。遅れて入ってきたミレーヌは、怒りと屈辱で肩を震わせ、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「私の……私が魂を削って、あの色鉛筆で描き上げた聖獣が……あんなゴミみたいな革に、死んだ線でなぞられて……。ねえマスター、あの商会の奴ら、魔法で灰にしてよ。お願いだから……!」
取り乱す女たちを前にして、坂本は眉一つ動かさなかった。お湯を沸かし、ゆっくりとコーヒーを淹れる。粗末なカップに注がれた、漆黒の液体から立ち上る湯気をふうと吹き消し、静かに喉に流し込んだ。
「ミレーヌさん、泣く必要はありません。オルドさん、魔法で灰にする必要もありませんよ。ビジネスにおいてパクリが現れるというのは、市場が『それが欲しい』と叫んでいる証拠です。歓迎すべきトレンドですよ」
「歓迎!?何を言ってるのよ、私たちの取り分が減るのよ!」
ピアが声を荒らげる。
「法律がない場所で模倣品を叩き潰す唯一の方法は、法廷闘争ではありません。圧倒的な速度で、敵の射程圏外を走り続けることです」
坂本は冷え切った目を向けた。
「パクリ屋の弱点は、常に『後発』であるという事実です。彼らが私たちの新商品を見つけ、下っ端の絵描きに模倣させ、粗悪な量産ラインを構築して市場にばら撒く。そこには必ず、数週間の『タイムラグ』が生じる。彼らがそのタイムラグを経て、ようやく古いデザインのパクリ品を並べた瞬間、私たちはこう仕掛けます」
坂本は、すでにアレンに裏で手を回して作らせていた、鈍い光を放つ金属の刻印をカウンターに置いた。
「まず、本物にはすべて、国が発行する『国家公認のロットナンバー』を刻印します。パクリ品を持つことは『貧乏人の恥』であり、本物を持つことこそがステータスだという意識を貴族たちに植え付ける。これがストーリーの構築。そして二つ目、ここからが本番です。彼らが最初の偽物を店頭に並べたその瞬間、ミレーヌさん、あなたはすでに『第二弾、第三弾の新作』をスラムからリリースしている状態になるわけです」
「え……?」
ミレーヌが、涙に濡れた睫毛を震わせる。
「彼らが一つ真似る間に、こちらは三つ新作を出す。デザインの回転速度を、極限まで上げるんです。彼らが必死で初期デザインの在庫を抱え、さあ売るぞと市場を埋め尽くした頃には、王都のトレンドはすでに次の世代へ移行している。彼らの模倣品は、店頭に並んだ瞬間に『型落ちのゴミ』になる。結果、彼らは売れ残った大量の在庫を抱え、自らの取り分の重みで勝手に潰れます」
「ひひ、ひひひっ!」
オルドが椅子の背もたれに体を預け、声を上げて笑った。
「底意地の悪い男だ、マスター!剣も魔法も使わず、ただ『速度』という見えない刃で、商会の首を刈るか。敵が追いついたと思った時には、こちらの足跡さえ消えているというわけだな」
「ええ。追いついた頃には、流行はもう終わっている。ミレーヌさん、パクリ屋のために筆を止める時間は無駄です。常に、奴らの手が届かない高みを走り続ければいい」
坂本の冷徹なロジックが、ミレーヌの胸の奥の、絵の具の匂いに混じる「獣」を呼び覚ます。
「おもしろいじゃない……。あいつらが逆立ちしても届かない速度で、もっと悍ましくて、美しいのを何枚でも描いてやるわ」
数週間後。王都の市場では、坂本の描いたシナリオ通り、無慈悲な光景が広がっていた。大手商会が山積みにした模倣品の周りには、閑古鳥が鳴いていた。貴族たちの手元には、すでにミレーヌの新作、深みのある『霊鳥フェニックスのジャパン・ブルーバッグ』が握られていたからだ。
「何だ、その古いデザインは。まだそんな偽物を持っているのか?」
「恥ずかしくて、それを持って歩くなど無理だな」
流行から取り残された模倣品は、倉庫の片隅でただの「不良在庫の山」と化し、商会の資金繰りをじわじわと蝕んでいった。自滅の味は、さぞかし苦いことだろう。
深夜二時。蔵のカウンターには、新作の仕様書を狂ったように描き終え、完全に灰のようになったミレーヌが突っ伏していた。ぐう、と情けない音が、彼女の薄い腹から鳴り響く。
「お疲れ様。ミレーヌさん、夜食です」
台所から運ばれてきたのは、熱を帯びた鉄板の上で重々しく脂を爆ぜさせている、極厚のハンバーグだった。箸を差し入れた瞬間、肉の壁が決壊し、透明な脂の弾幕がじゅわじゅわと溢れ出す。その上に、艶やかな、泥のように濃い漆黒のデミグラスソース。さらに、白身の端がカリカリに焼けた目玉焼きが乗っている。
「何よこれ……肉から、スープが、滝みたいに溢れてくるんだけど……」
ミレーヌは我を忘れて、肉塊を口に放り込んだ。暴力的な肉の食感、噛むたびに溢れる旨味、デミグラスのコクが、荒れた舌の上で容赦なく絡み合う。
「生きてて、よかった……」
ミレーヌは旨さのあまり、カウンターに突っ伏してとろけていた。その横から、オルドのフォークが目玉焼きの黄身を目がけて、音もなく伸びる。
坂本は、そんな喧騒をよそに、仕様書の紙を静かに整理した。
「描き続ける限り、彼らは追いつけません。さあ、お腹が満ちたら、次は日本側を揺さぶる『第四弾』の話をしましょうか」
蔵の冷たい床の上で、夜はまだ、果てしなく深く続いていた。




