第28話:飢えた天才絵師と、夢を削らない「ロイヤリティ」
ドブ川の泥が発酵したような悪臭が消え、代わりに乾いた漆喰と石炭の匂いが鼻をつく。あの薄汚い闇ルートを力ずくで叩き潰してから、王立工房の空気はすっかり様変わりした。泥を啜っていたスラムの連中が、まともなスープを口にできるようになり、路地裏で転がる死体も目に見えて減った。だが、胃袋が満たされると、人間はすぐに次の渇きを覚え始める。腹を膨らませるだけの冷えたパンではなく、もっと別の、魂をじりじりと焦がすような何かが欲しくなるらしい。
深夜二時。古い蔵の、湿気とカビが染みついた空気の中で、坂本は仕入れ帳簿の黄ばんだ紙面を指先でなぞっていた。突如、けたたましい音が静寂を切り裂いた。
ガチャン、カラン、ガラガラ!
「マスター、頼むから開けて!もう、私の手に負えるような代物じゃないの!」
悲鳴のような、肺から絞り出された声。転がり込んできたのはプロジェクトマネージャーのピアだった。その背後、引きずられるようにして、泥人形のような女がのろのろと這いずり入ってくる。
「……随分とけたたましい夜だな。耳の奥が痒くなる」
カウンターの隅で、冷え切った麦茶のグラスを結露した雫ごと指で弄んでいた大魔導士オルドが、長い耳を煩わしそうに震わせた。
女の年齢は二十五、六といったところか。髪は鳥の巣のように絡まり、継ぎ接ぎだらけの服には、赤や黄色、毒々しい紫の絵の具がべっとりと乾きついて固まっている。何日まともなものを食っていないのか、頬の肉は削げ落ち、落ち窪んだ眼窩の奥で、ただ瞳だけが異様にぎらついていた。
「ピアさん。その泥まみれのは?」
坂本は声を落としたまま、カウンターを拭いた。
「ミレーヌ。一部の物好きが『天才』と持て囃す絵描きよ。だけど、中身はただの社会不適合者。お世辞の一つも言えないの。『お前の顔は肥溜めに浮いた豚の脂だ。そんな醜いものを美しく描くなど、私の筆への侮辱だ』って、パトロンの貴族の鼻先に絵の具を塗りたくってさ。当然、業界からは徹底的に干された。スラムのゴミ溜めで野垂れ死にしかけていたのを、私が拾い上げて連れてきたの」
「腹が、減った……。筆を奪われ、紙を奪われ、私に死ねと言うのか。あの豚どもめ……」
ミレーヌはカウンターの木肌に額を擦りつけ、獣のうめき声のような呪詛を吐き出す。
その這いつくばる背中を見て、坂本は不意に、胃の底が冷たくなるような記憶を呼び戻していた。前職、押しつぶされそうな満員電車、締め切りに追われてカフェイン剤を貪り食っていた、あの引きこもりのイラストレーターたちの顔。才能だけは怪物なのに、契約書の読み方すら知らず、買い叩かれ、最後はアパートの片隅で干からびていった職人たちの無念が、ミレーヌの汚れた背中に重なる。
「……まずは、その喉の渇きと、胃の痙攣を止めましょう。座っていなさい」
坂本は母屋の台所へ足を向けた。冷蔵庫の重い扉を開け、冷気に混じるケチャップと玉ねぎの匂いを吸い込む。沸騰した湯が立てる蒸気の中へ、パスタの束を放り込む。フライパンに油を引き、刻んだ玉ねぎと、少し乾燥しかけたピーマン、それから日本の安っぽいソーセージを投げ入れた。ジュ、と湿った音が爆ぜる。
そこに、これでもかと赤いケチャップを絞り出す。強火。フライパンを揺するたび、酸っぱい湯気が鼻腔を容赦なく刺し、甘酸っぱく、そして油ぎった独特の匂いが蔵の隅々にまで充満していく。スラムの湿気た空気が、一瞬で場違いな昭和の喫茶店に塗り替えられた。
「ほう。これはまた、五臓六腑を直撃する野蛮な匂いだな」
オルドが身を乗り出し、喉を鳴らす。
「夜食の定番、ナポリタンだ。粉チーズとタバスコは、嫌というほどかけてある」
目の前に置かれた、湯気をあげる真っ赤な山。ミレーヌはフォークを掴むなり、皿に顔を突っ込むようにして、麺を口内に押し込んだ。
「――っ!」
女の喉が、引きつったように鳴る。
「おいしい……っ、何、これ。甘くて、妙に酸っぱくて、肉の脂が口の中で暴れてる……!この、舌の先を針で突き刺すような辛さは何!?脳みその裏側で、見たこともない極彩色の花火が爆発してるみたい……!」
涙とケチャップで顔をぐちゃぐちゃに汚しながら、ミレーヌは皿をかきむしるようにして貪り食った。
「おい、ワシの分は残しておけ」
オルドが、横からフォークをねじ込んでいる。
空になった皿を見つめ、ミレーヌは脂ぎった唇を袖で拭った。人心地ついたものの、その目にすぐに、冷え切った現実の色が戻る。
「……ごちそうさま。だけど、胃袋が膨らんだところで何も変わらない。あの肥満体の貴族どもに媚びを売って、美しい嘘を描かなければ、私はまた明日から泥を啜るだけ。自分の描きたいものだけを描いて生きていくなんて、そんな都合のいい夢はない」
坂本は、彼女が抱え込んでいた薄汚れたスケッチブックに目を落とした。そこにあったのは、貴族の肖像画ではない。見たこともない、だが奇妙に生命力に満ちた、異世界の『聖獣』。緻密な毛並みの一本一本、今にも噛みついてきそうな牙の鋭さ。圧倒的な熱量が、粗末な紙の上で脈打っている。
「ミレーヌさん。一人の金持ちに魂を切り売りする時代は、もう終わりにしましょう」
坂本は乾いた声で言った。
「これからは、あなたの描いたその獣を、何百、何千という『形』に写し取って、大衆に売る。そして売れた数だけ、あなたの財布に硬貨が落ち続ける仕組みを作る。あなたの名前そのものを、誰も手出しできないブランドに仕立て上げるんです。それを、ロイヤリティと呼びます」
「ろいや、りてぃ……?複製品、を売る?」
ミレーヌが、ケチャップのついた顔を怪訝そうに歪める。
「そう。絵を一枚売って終わりの博打じゃない。あなたが描いたデザインを、私たちが管理する革製品や道具に刻み込む。ライセンスです。商品が売れるたび、数パーセントの取り分が自動的にあなたに入る。あなたがアトリエで泥のように眠っている間も、その絵が、あなたの代わりに稼ぎ続ける。私たちはあなたの才能を買い叩かない。ただ、その価値を増殖させるだけです」
「寝ている間も、絵がお金に……?」
ピアが呆然と呟く。この世界には「版権」なんて言葉も、概念も存在しない。物を作るということは、その現物を手放すことと同義だったからだ。
「具体的には、この聖獣のスケッチを、スラムの工房がなめした牛革に『型押し』として施す。デザインの力で、日本の市場では価格が跳ね上がる。売れた分だけ、あなたに金が入り、スラムの職人にも仕事が回る。誰もが分け前を預かるシステムです」
「ひ、ひひっ……!」
オルドが汚れたテーブルを叩いて笑った。
「相変わらず、悪魔のような男だな、マスター。絵描きをパトロンの奴隷から解放し、仕組みそのもので富を絞り出すか。ミレーヌとやら、この男に乗っておけ。こいつの作る『仕組み』だけは、裏切らない」
ミレーヌの細い肩が、微かに震えていた。目の前の、泥臭い商売のロジック。それが、彼女の胸の奥にある、冷めかけていた創作の火種を強引に煽り立てる。
「やるわ……。私の絵を、その革に深く刻み込んで。世界中の奴らの鼻を明かしてやる」
「契約成立ですね。これは前払いのサイン代わりです」
坂本はカウンターの奥から、机の引き出しに眠っていた、日本製の丸い缶を差し出した。二十四色の色鉛筆。ミレーヌが蓋を開けた瞬間、その瞳に色の洪水が反射した。寸分の狂いもなく整然と並ぶ、鮮烈なグラデーション。
「何これ……こんな、滑らかで、尖っていて、狂いのない色の束、見たことがない……!これなら、どんな光も、影も、全部描き出せる……!」
色鉛筆の缶を、まるで奪い取った宝石のように抱きしめ、ぎらついた目でミレーヌは立ち上がった。彼女はピアに引きずられるようにして、嵐のように夜の闇へと消えていった。
それを見送った坂本は、静かにノートパソコンを開いた。液晶の青白い光が、彼の疲れた顔を照らし出す中、表計算ソフトのセルに、冷徹な売上予測の数式を打ち込んでいく。
「これで、あっちの市場に出す新商品のバリエーションも、形になる……」
古い蔵の隅で、冷たい電子音だけが静かに響いていた。




