第27話:信頼の「在庫管理(棚卸し)」と、監査の包囲網
あのデブい商人のバルザックが、脂汗まみれの顔をひきつらせて逃げ出してから、どれくらい経ったか。壁の時計は二時をとうに回っている。冷え切った「蔵」のカウンターには、この世界の頂点にいる連中が揃っていたが、誰一人として口を開かない。重苦しい湿気のような沈黙が、足元から這い上がってくる。
「……スラムの連中が、外へ流した。マスター、本当に、見間違いではないのだな?」
若い王、ライナスの声は底なしに低かった。いつも纏っているきらびやかな覇気は消え失せ、酷く疲弊した男の生々しい声だ。隣に座る財務トップのアレンは、白々とした顔のまま、爪が手のひらに食い込むほど拳を握り込んでいる。現場の管理を任せていたピアにいたっては、まるで泥水を飲まされたかのように唇を小刻みに震わせ、「そんな……」と掠れた声を漏らすのが精一杯だった。
「間違いありません」
坂本は、氷をトングで掴み、ウーロン茶のグラスへ放り込んだ。カラン、と乾いた音がやけに響く。グラスの表面にじわりと浮かぶ水滴を眺めながら、感情を排した声で続けた。
「バルザックが持ち込んできたのは、うちがスラムに支給した日本米と石鹸そのものです。あの狭いコミュニティの外へ出るはずのないものが、市場で出回っている。身内の誰かが、裏で引いてます」
「クソ泥棒どもが……っ!」
アレンが立ち上がり、カウンターの分厚い木を拳で殴りつけた。グラスが小さく跳ねる。
「マスターがどれだけ労力を惜しまず、あの糞尿まみれの路地裏を形にしてきたと思っている!飼い犬に手を噛まれるなど、到底許されん!陛下、今すぐ近衛を。夜明けを待たず工房を包囲し、一人残らず引きずり出して縛り首にすべきです!」
「アレンさん、座ってください。声がデカい」
坂本は手元のウーロン茶を喉に流し込み、ぬるくなったグラスを置いた。その目は、怒るでもなく、ただ冷めている。
「兵を動かせば、せっかく『真っ当に働く』って感覚を覚え始めた連中が、また怯えて殻にこもる。現場を脅して、生産ラインが一日でも止まったらどうなるか分かりますか。日本側への納期が飛ぶ。日本での商品が途絶えて痛手を受けるのは、王宮じゃなく、私なんです」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!」
ピアが鼻をすすりながら叫んだ。目元が真っ赤だ。
「誰が盗んだかも分からないのに、このまま見て見ぬふりをしろって言うの?」
カウンターの端で、ポテトチップスを湿気った音を立てて齧っていた老魔導士のオルドが、ここで低く笑った。黄色く濁った歯が見える。
「ひっ、ひっひ……。お前たち、この男の顔をよく見ろ。そんな泥臭い兵隊の動かし方をするタマか。なぁ、マスター。もう、首輪は嵌めてあるんじゃろ?」
「ええ、まあ」
坂本は胸のポケットからクシャクシャになったティッシュを取り出し、手に付いた油汚れを拭き取った。
「現場をひっくり返す必要はありません。数字を合わせるだけです。アレンさん、ピアさん。日本の工場じゃ嫌ってほどやらされる『棚卸し』と『ロット管理』の話をします」
「タナオロシ……?」
「そう。スラムへ回した米の袋や石鹸の包み紙、あれ、ただの無地に見えて、班ごとに全部マークを変えてあるんです。笑顔のマークの、目の位置、インクの濃さ。青と、微妙に違う群青色。全部で二十の班に、それぞれ違う『足跡』をつけさせてあります」
坂本はカウンターの下から、重たいノートパソコンを引きずり出した。画面の光が、アレンたちの顔を白く照らす。表計算ソフトの無機質なセルには、いつ、どの班に、何個の物資を渡したかが、嫌がらせのように細かく記録されていた。
「明日、適当な理由をつけて工房の作業を一度止めさせてください。『カビの検査だ』とでも言えばいい。それで、住民の家に残っている現物を全部数え上げさせる。帳簿の数字と合わない班、そして、さっき私がバルザックから取り返した袋のマークと『一致』する班。――それが、ネズミです」
アレンは画面の数字の羅列を凝視したまま、喉を鳴らした。じわじわと、背筋に嫌な汗が伝うのを感じている。力でねじ伏せるよりも、この網の目のような数字に囲まれる方が、遥かに逃げ場がない。
「……言い逃れも、隠蔽もできん。ただの数字が、裏切り者を炙り出すのか」
「明日、監査の人間を。組織の血が腐る前に、早めに切ってください」
坂本が淡々と言うと、ライナスもアレンも、ただ重く、深く頷くしかなかった。
翌朝、王都の隅にある「王立ホワイト工房」は、妙な熱気に包まれていた。
「これより在庫の確認を行う!全員、手持ちの支給品を机に出せ!」
アレンが連れてきた硬い表情の監査官たちが、容赦なく踏み込んでいく。かつてなら一触即発、怒号が飛び交うスラムだが、数ヶ月にわたる坂本の「整理・整頓」の叩き込みが効いているのか、若者たちは戸惑いながらも、静かに手持ちの石鹸や米の袋を並べ始めた。
監査官たちは怒鳴りもしない。ただ、冷え切った手つきで、石鹸の数を数え、袋の裏の、誰も気に留めないような小さなインクのシミを睨みつけていく。
そして、部屋の奥。かつてスラムの利権をしゃぶり尽くし、今は大人しく労働者に収まっていたはずの、年長の有力者たちの机の前で、アレンの足が止まった。
「……三十個、足りないな。お前たちの班に渡した分だ。そして、手元にあるこの袋のマーク、商業ギルドの闇ルートに流れていたものと完全に一致した」
「な、何のことだ!紛失だろ、そんなもん!どこかに置き忘れたんだ!」
男の額から、タラリと汚い汗が流れる。
「言い逃れは数字が許さない。連れて行け」
アレンの冷たい声と同時に、控えていた衛兵が男たちの腕を捻り上げた。他の若い労働者たちを一人も巻き込まず、怒号が響くこともなく、ただ一区画のネズミだけが、網に引っかかった泥棒のように、あっけなく引きずり出されていった。
午前二時。蔵の重い木製の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
カラン、カラン……。
「……マスター。全部、終わりました……」
入ってきたアレンとピアは、まるで何日も徹夜したかのように、カウンターへ倒れ込むように座った。オルドがニヤニヤしながら、つまみのクッキーを投げたが、二人はそれを拾う気力すらない。
「ご苦労様でした。現場を潰さずに済んで助かりました」
坂本は、いつも通りの低いトーンで応えると、すぐに背を向けて母屋の台所に引っ込んだ。しばらくして、トントンと小気味よい包丁の音が響き、やがて蔵内に、ぶわっと暴力的なまでの香りが漂い始めた。鶏ガラのズッシリとしたコク、焦がした醤油の匂い。空腹の胃袋を直接掴まれるような香気だ。
「これ、食べてください。頭使うとお腹減るでしょう」
差し出されたのは、茶色く濁った、だがどこか澄んだスープの『チャーシュー麺』だった。手作りの分厚い肉が3枚、スープの熱で脂がじわりと溶け出している。固めに茹でられた細麺が、琥珀色の液体の下で身を潜めていた。
「なに……これ……」
ピアが、箸を震わせながらスープを一口、口に含んだ。その瞬間、塩気と脂の暴力が、緊張でカラカラだった五臓六腑へ一気に染み渡る。
「うっ……うまい……!何これ、熱いのに、どんどん入っていく……っ!」
ピアがなりふり構わず麺を啜り、アレンもまた、肉の塊を口に放り込んで「これだ……この濃さが欲しかった……」と、半ば涙目で吐き捨てた。
「生き返る。本当に……」
アレンは丼の底が見えるまでスープを飲み干し、大きく息を吐いた。
「マスター、例の元有力者どもは全員、地下へ叩き込みました。これで、工房の膿は全部出たはずです」
坂本は、使い古された布巾でカウンターの細かな水滴を何度も往復させて拭きながら、小さく息を漏らした。
「ええ。これで少しは、真面目にやってる奴らがバカを見ない場所になりますかね」
「ひっ、ひっひ。数字でじわじわと追い詰めて、最後はこれか。お主、本当に底が知れんのう」
オルドが安物のハイボールを喉に流し込みながら、喉を鳴らす。
夜が明ければ、またあの薄暗いスラムの工房が動き出す。ネズミがいなくなった作業場は、これまで以上に規則正しい、硬い駆動音を響かせるはずだった。だが、坂本はただ、明日のスーパーへの買い出しのメモと材料の発注書を見つめ、小さくため息をついただけだった。




