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第26話:スラムの「横流し(情報漏洩)」と、冷えたハイボール

 深夜一時。しんと静まり返った限界集落の闇を切り裂くように、蔵の立て付けの悪い扉が、ギィ、と重苦しい音を立てて開いた。


 カラン……カラン……。


 いつもやってくるガラムの地響きのような足音でも、ピアのせわしない靴音でもない。獲物の品定めをするような、ねっとりとした、嫌に静かな足音が床板を鳴らす。


 現れたのは、脂ぎった顔に見事な口髭を蓄えた、恰幅のいい中年男だった。夜だというのに仕立ての良いシルクの外套を羽織り、その指にはいくつもの魔導宝石の指輪が、これみよがしな光を鈍く放っている。。金特有の、鼻に触る嫌な匂いが蔵の空気に混ざった。


 男は、カウンターの奥で布巾を動かしていた坂本をねめつけると、ふっと不敵な笑みを浮かべて椅子に腰掛けた。


「ようやく見つけましたよ。王都のスラムのドブネズミどもを踊らせ、見たこともない極上の白米や、汚れを落とす魔法の塊を裏で配っている黒幕殿。いや――この蔵の主、とお呼びすべきですかね」


 バルザック。王都の物流を牛耳る商業ギルドの元締め。その名前が坂本の脳裏をよぎった。


 坂本は、グラスを拭く手をぴたりと止めた。いつもの締まらない目の奥が、冷たいガラスのように鋭く尖る。


 胃の奥が、キリキリと音を立てて軋み始めた。あのスラムに支給した日本米も石鹸も、現地で消費させることを絶対条件にした現物支給だったはずだ。それがなぜ、商業ギルドのトップにまで流れている。


 前職の、あの息の詰まるような会議室の光景がフラッシュバックする。下請けのキックバック。部下の横領。データの持ち出し。(横流しだ。ネズミがやがったな)坂本の脳内で、最悪の警報が鳴り響いていた。


 バルザックは、坂本の沈黙を「怯え」と受け取ったのだろう。懐から、ずっしりと重い山吹色の革袋を取り出すと、カウンターに叩きつけた。ドスン、と下卑た鈍い音が響く。


「単刀直入に言いましょう。その米と石鹸のルートを、我が商会へ丸ごと譲っていただきたい。金ならいくらでも出す。スラムのハエどもに食わせるには、あまりにも惜しい価値だ。あんたにとっても、私と手を組んだ方が遥かに実入りが良いはずだ」


 利権を強引に毟り取ろうとする、大企業の役員そっくりのタフな交渉。だが、坂本は微塵も動じなかった。泥沼のような派閥争いで、数々の「不正」を冷徹に処分してきた坂本にとって、この程度の恫喝は吐き捨てるほどの泥水に過ぎない。


「ビジネスの話をする前に、まずは喉を潤してください。夜道は暑かったでしょう」


 坂本は淡々と、実家の冷凍庫からキンキンに冷えたジョッキを取り出した。凍りついたガラスの表面に、室内の湿気がじわりと水滴になって浮かぶ。そこへ、極限まで冷やした安ウイスキーを注ぎ、強炭酸水を勢いよく滑らせた。パチパチと弾ける泡。レモンの皮をひねり、苦味のあるオイルを飛ばす。さらに、小皿に盛った脂っこいレーズンバターを添えた。


「……っ!?なんじゃこの、黄金に輝く泡は。それに、この吐き気がするほど芳醇な樽の香りは一体……」

「ハイボールです。どうぞ」


 バルザックは、喉を鳴らしてジョッキを掴み、一気に口に含んだ。その瞬間、強烈な炭酸の痛みが男の舌を直撃する。冷たい衝撃に身体を震わせ、濃厚なバターを口に運べば、ウイスキーのコクと喧嘩しながら胃に落ちていく。完璧な組み合わせに、男の目が泳いだ。


「――美味い。美味すぎる……っ!あんたの世界には、これほどの美酒まであるのか!」


 バルザックが完全にこちらのペースに嵌ったのを見届ける。その瞳には、血の通わないシステム監査官としての冷徹な光が宿っていた。


「バルザックさん。結論から言います。あんたとの取引は、一パーセントもありません」

「な、何だと……?金が足りんと言うのか!?」

「金額の問題じゃない。筋、コンプライアンスの話です。あんたが持っているその米と石鹸は、うちの工房の契約違反によって不当に流出した、いわば盗品だ。横流し品だと知りながら買い叩き、ここに脅しをかけに来るような奴を、まともなビジネスパートナーとして認めるわけがないでしょう」


 坂本は、怯む大商人に冷酷なロジックを叩きつけた。


「うちの荷物の動きは、すべて追跡できるよう網を張ってある。身内に泥棒がいるなら、そのルートごと組織を叩き潰すだけだ。……あんたの仕入れ元は、明日、この世界から消えますよ」

「な、にい……っ!?」


 バルザックは、冷えたグラスを握ったまま硬直した。利権を奪い取るつもりで乗り込んできたはずが、見たこともない強固な、血も涙もない「組織防衛」の壁の前に、完全に叩き潰されていた。


 そこへ、蔵の奥のふかふか座布団に寝そべり、これまでずっと気配を消してのり塩のポテトチップスを貪っていた影が、ゆっくりと起き上がった。


「ひっ、ひっひ……!見事な論破じゃなマスター。おい、商業ギルドの小僧。ワシのお気に入りの店で、随分と不躾な脅しをかけてくれたのぉ?」


「お、オルド……先生……!?なぜ、知の最高峰である大魔導士様が、このような場所に……っ!?」


 バルザックは、王宮最高顧問であるオルドの顔を見た瞬間、文字通り泡を吹いて椅子から転げ落ち、腰を抜かした。自分がどれほど危険な領域に足を踏み入れてしまったかを、その時になってようやく理解したのだ。


「ひっひっひ、腰が抜けておるぞ。ほれ、さっさと失せるがよい。ワシとマスターの晩酌の邪魔じゃ」


 バルザックは命からがら、這うようにして蔵の扉から逃げ出していった。


 静寂が戻った蔵の中で、坂本は深く、重いため息を吐きながらグラスを片付けた。冷え切ったハイボールの氷が、カランと虚しく鳴る。


「……オルドさん。スラムの工房に、内訳を狂わせているネズミがいますね。これ以上の情報漏洩はラインの崩壊を招きます」


 坂本はパソコンの画面を開き、冷酷な目でデータを見つめた。


「アレンさんと出来ればライナスさんを呼んでください。……膿出しの時間です」


 画面の明かりに照らされた坂本の顔には、一切の慈悲はなかった。異世界だろうが日本だろうが、規律を乱すネズミに与える餌など、一粒だってありはしないのだ。

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