第25話:ブランドの覚醒と、娘からの手紙
深夜三時。限界集落の、耳が痛くなるような静寂。蔵の中に、キーボードを叩く乾いた音が規則的に響く。
画面の青白い光が、坂本の無精髭の伸びた顎を照らしていた。昼間、埃っぽい床の上で何度も角度を変えて撮った写真。布の上に置いたバッグは、異世界のあのどす黒い藍が、液晶越しでも不気味なほど光を吸い込んでいた。カイルというスラムのガキが、油まみれの親指で力任せに捺した歪なハンコ。
「15万」
指先が少し震えた。最初のスマホスタンドは5千円だった。そこから一気に三十倍。実績も糞もない謎のショップが、海外の老舗ハイブランドと変わらない値段をつけて誰が買う。分かっている。こんなものはただの博打だ。だが、元妻の冷ややかなメッセージが脳裏をよぎる。制服、カバン、教材費。具体的な金が必要だった。
「売れるわけがない……」
坂本は吐き出したため息をおさえ、逃げるようにパソコンを閉じた。万年床の湿った煎餅布団に潜り込んでも、胸の動悸はしばらく収まらなかった。
◇
翌正午。枕元のスマホが、床板を鳴らして激しく震えた。ブブブブ、ブブブブ、と。耳障りな金属音が、こびりついた眠気を強引に引き剥がす。
「……アラームか」
手を伸ばし、視界のぼやけた画面をなぞった。並んでいたのは、見慣れない文字列だった。
『売上確定:注文番号0001』
『売上確定:注文番号0002』
『売上確定:注文番号0003』
『売上確定:注文番号0004』
『売上確定:注文番号0005』
それが五通。すべて、午前三時過ぎの、わずか三分間の間に集中して叩きつけられていた。
「三分……?」
起き上がる拍子に、布団の端で膝を強かに打った。痛みを無視してパソコンの電源を入れる。ブラウザを開き、SNSのタイムラインへ飛び込んだ。画面の向こうは、得体の知れない熱病に浮かされていた。
『あの謎ショップの新作、15万とか舐めてると思ったら写真がヤバすぎる。何だこの青。光の当たり方で深海にも宇宙にも見える。日本のヌメ革にこの手縫いの細かさ、海外のハイブランドが限定コレクションで数百万で出すレベルだろ。三分で蒸発した。買えなかった、死にたい』
『マニアの間でもう「幻の藍染め」って騒がれてるぞ。誰が作ってんだこれ』
一晩で、75万。娘の入学費用どころか、当面の生活費までが一瞬で口座に振り込まれた。坂本は椅子の背もたれに頭をぶつけるように預け、天井の煤けた梁を見つめた。喉の奥が妙に渇いている。これで、あの子に恥ずかしい思いをさせずに済む。指の隙間から漏れた息は、嗚咽に似ていた。
数日後の月末、錆びついた郵便ポストに、一枚の青い封筒が落ちていた。差出人の名前を見た瞬間、胃のあたりがキュッと縮む。元妻の文字。だが、中から出てきたのは、折り畳まれた小さな便箋だった。
『お父さんへ。毎月お金をくれてありがとう。お母さんから、お父さんが新しい仕事を頑張ってるって聞きました。今度、中学校の制服を買いに行くんだよ。セーラー服なんだ。落ち着いたら、またお父さんの美味しかったコーヒーが飲みたいな。無理しないでね』
丸っこい、インクの滲んだ文字。二年前、会社を追われ、過呼吸で会議室で倒れ込み、家庭もプライドもすべてを失ってこの限界集落へ逃げてきた。あの時の頬に触れた冷たい会議室の床の感触が、一瞬でフラッシュバックする。
視界が歪んだ。ポツリ、と手紙の余白に涙が落ちて、青い紙がドス黒く染まる。会社という組織から粗大ゴミのように放り出された自分の持つ手垢のついた管理術。それが、あの薄汚れた異世界のスラムのガキどもの、剥き出しの飢えとプライドに火をつけ、巡り巡って、今、日本の娘のセーラー服に変わった。その奇妙で、泥臭い繋がりが、坂本の泥のようだった胸の支えをゆっくりと溶かしていく。
「……泣いている場合じゃないな」
坂本はクシャクシャのティッシュを鼻に宛がい、軽トラの鍵を掴んだ。坂道にエンジン音を轟かせて下り、麓の寂れたコンビニへ向かう。ATMの前に立ち、機械的な電子音の中に、今月分の養育費と、15万のバッグの売上からむしり取った「入学祝い」の札束を、これでもかと叩き込んだ。画面に表示される残高の数字だけが、今の自分の唯一の盾だった。
その夜、午前二時。蔵の扉が重く開き、オルドがのっそりと入ってきた。いつものように座布団に腰掛け、ポテトチップスを口に放り込む。バリバリと湿った音が響く。
だが、老いぼれエルフはすぐに手を止め、坂本の顔を凝視した。
「おい、サカモト。今日は妙な顔をしておるな。いつもお主の背中にへばりついておった、あの死人のような『未練』の匂いがせんぞ」
坂本は何も言わず、日本側から取り寄せた、少し値の張るコロンビアの豆をミルに放り込んだ。ハンドルを回す。ゴリゴリと、いつもより硬く、重い音が蔵の床に染み込んでいく。
「ええ。ちょっと、うるさい株主から連絡がありまして」
坂本は小さく笑った。その目は笑っていなかったが、声だけは妙に落ち着いていた。
「ふむ、よく分からん。だが、その豆はいつもより鼻にツンとくるな。贅沢な匂いだ」
オルドが鼻腔を広げる。
「オルドさん、いつも助かっています。これ、私からの支払いです」
細く落としたお湯が、珈琲の粉を黒く膨らませていく。
だが、坂本はその温かい香りの向こう側、暗い蔵の隅を見つめていた。バッグは売れた。金はできた。だが、あのスラムの連中は次の美味い飯を待っている。液晶の向こうのコレクターどもは、さらに刺激的な「青」を求めて飢えている。一度回し始めた仕組みは、もう止まらない。
坂本の目は、かつての冷徹な光を静かに取り戻しつつあった。




