第24話:「リモート進捗管理」と、藍染めのマイスター
娘が中学校に上がる、来春の話だ。スマホの液晶に浮かんだ、元妻からのメッセージの文字。制服代、指定のカバン、教科書、入学費用。突きつけられた具体的な数字の羅列は、冷え切った蔵の空気の中で、坂本の胃の腑をじりじりと灼く義務そのものだった。
「月30じゃ話にならない」
誰もいない深夜零時過ぎ。古い木造の蔵。坂本は、指で安物の電卓を叩く。カチカチとプラスチックの乾いた音が虚しく響いた。狙うのは一個5万、いや、もっとふっかける。日本の金持ちが涎を垂らすような、傷一つない国産牛のヌメ革。床に転がした原皮の、獣特有の生臭い匂いが鼻腔を突く。仕入れのためにあり金を叩いた。もう後戻りはできない。
問題は、ここから一歩でも外へ出れば、呪いのような現象で言葉がまともに喉を通らなくなることだ。あっちの連中には、こちらの言葉がただの耳障りな雑音にしか聞こえない。どれほど頭の中で完璧なバッグの形を思い描いたところで、スラムの吹き溜まりに行って手取り足取り教えることなんてできやしない。
「行く必要はない。仕組みさえ作れば、動く」
坂本はカウンターに日本の電子機器を並べた。
午前二時、立て付けの悪い扉がギィと軋んだ。
「ひっ、ひっひ!待たせおって。今夜はあのマスターが、スラムの泥水を啜る連中をさらに絞り上げる悪巧みを教えてくれるそうじゃ」
エルフの老いぼれ――オルドが、指についたのり塩味のポテトチップスの油をズボンで拭きながら、冷えたコーラを喉に流し込む。げっぷの匂いが蔵に広がる。
「オルドさん、うるさい。……サカモト、待たせたわね」
ピアが眠そうな目を擦りながら椅子を引く。後ろからは、丸太みたいな腕に汗を滲ませたドワーフのガラム親方が、のっそりと入ってきた。床に置かれた巨大な革のロールを、値踏みするような濁った目で見つめている。
「サカモト、スラムの連中は今、飯が食えるってだけで目の色を変えてる。笑顔のマークを拝み倒してやがる。だが、次は何をさせる気だ?そのデカい皮をどうする?」
坂本は二人の前に、皺の寄った日本のファッション雑誌を開いた。洗練されたハンドバッグのページ。
「……綺麗だけど、これ、今のスラムじゃ無理よ」
ピアが眉をひそめる。
「型抜きはできても、この立体的な縫製と、最後の仕上げは、指先の感覚が狂っているような職人じゃないと形にならないわ」
「だから、その職人をあっちで育てる」
坂本はカウンターの隅から、埃を被ったガラス瓶を取り出した。蓋を開けると、ツンとした独特の酸っぱい臭いが鼻を突く。日本から持ち込んだ、天然の藍染め液だ。
「青い汁?ただの絵の具か?」
ガラムが鼻を鳴らす。
「見ていてください」
坂本は使い古しのゴム手袋をはめ、刷毛にドロリとした液を含ませて、白いヌメ革に滑らせた。
蔵の空気がピリリと爆ぜるような錯覚。
ジジ、ジジジ……。
「おい、何だこの色は……!?」
オルドが驚いてポテトチップスを床にぶちまけ、椅子を蹴立てて立ち上がった。理論的には解っているし坂本にもそう教えた。しかし、異世界のねっとりとした大気と、国産ヌメ革の素材が、藍の成分と混ざり合って、おぞましいほどの化学反応を起こしている。おそらく日本の工房ではお目にかかれない、光を拒絶する深海のような、あるいは底無しの夜空のような、どす黒くも美しいグラデーションが、じわじわと革を侵食していく。
「……信じられない。何、この青」
ピアが息を呑み、その青を凝視する。王宮の高級魔導具だって、こんな不気味な美しさは持っていない。
「これをスラムでやらせます」
坂本は、二人の前に液晶にヒビの入ったタブレット端末を置いた。画面の中で、坂本の手元だけがぬるぬると動く。刷毛の角度、革を押さえる指の白さ、寸分の狂いもない針の運び。
「おい、この板の中でサカモトの幽霊が動いてやがるぞ」
ガラムが呆然と呟く。
「動画のマニュアルだ。字が読めなくても、これを見れば刷毛の動かし方も、針を刺す深さも身体で覚えられる。ピアさん、これを現地に持って行って、一番手先の器用な奴に見せてください。そいつをチーフにする」
現場に立てないなら、システムで縛るだけだ。
「優秀な奴にはマイスターの肩書きを与えて、ボーナスとして日本の美味い缶詰や上等な服を握らせる。そして、そいつらが検品したバッグの裏には、自分専用の刻印を、ハンコを捺させるんです」
「ハンコを……自分で?」
「名前を刻むのは、逃げ道をなくすってことです。同時に、スラムの人間が初めて持つプライドにもなる。そして、最終成果物をここに持ってきてください。私が検品して、ダメなら容赦なく突き返す。通ったものだけを買い取る」
坂本は淡々と、感情を排した声で言った。完璧な仕様書と、冷徹な検品システムさえあれば、自分が現地に行く必要は一切ない。遠隔の管理なんてものは、そういうものだ。
オルドはしばらく呆気に取られていたが、やがてカウンターを叩いて、しわがれた声で笑い出した。
「ひっ、ひっひ……!恐ろしい男じゃ。顔も合わせず、言葉も通じぬまま、ただの仕組みと光る板だけで人を狂わせ、宝を作らせるか。お主の国のやり方は、ワシらの精神魔法よりよほどタチが悪いわ。これなら、お主の言う大事なスポンサーへの貢ぎ物も途切れんな」
「ええ」
坂本は、クシャクシャになった緩衝材をゴミ箱に放り込んだ。
「父親の面目がありますから」
数日後。スラムの風向きが変わった。合格してマイスターになれば、あの美味い米と、肉の詰まった缶詰が山ほど手に入る。ピアたちの言葉は、飢えた職人たちの理性を焼き切るには十分だった。
「おい、マスターの板を見せろ!」
「この青だ、この深海の青を出さなきゃ、あの冷たい目の検品で撥ねられるぞ!」
偉大なる神への信仰は、より即物的な飢えと、自分の名前が刻まれるという奇妙な全能感に変貌していた。彼らはもはや、ただの泥泥とした作業員ではなかった。
深夜二時。蔵のカウンターに、ピアが重々しく五個のバッグを置いた。
坂本は手袋をはめ、値踏みする目でそれらを一つずつ手に取る。異世界の魔力と混ざり合った、ジャパン・ブルーの禍々しいまでの青。狂気を感じさせるほど正確に並んだ手縫いのステッチ。バッグの裏側には、現地の若者が震える手で捺したであろう、歪んだ刻印があった。
「……いけますね」
坂本は低く呟き、革の冷たい感触を確かめる。
「くく、合格か。さあ、その液晶の向こうにいる日本の金持ちどもを、その深海の青で溺れさせてやるが良い」
オルドがコーラを飲み干し、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ええ」
坂本はパソコンを立ち上げ、ネットショップの管理画面を開いた。深夜の静寂の中、キーボードを叩く音だけが、まるで冷酷なメトロノームのように蔵に響き渡る。画面の明かりが、坂本の疲弊した顔を青白く照らし出していた。




