第23話:月末のATMと「親の責任(固定費)」
セミの鳴き声がうるさく響く、真夏の蒸し暑い午後。坂本は冷房の効きが悪い軽トラックの窓を全開にし、限界集落から数キロ離れた町外れのコンビニへと向かっていた。
アスファルトから立ち上る陽炎を切り裂き、駐車場に車を止める。自動ドアをくぐり、冷気にホッと一息つきながら、坂本はまっすぐに店内のATMの前へと歩み寄った。
パチン、とプラスチックのキャッシュカードを挿入し、通帳を差し込む。ウィーンという機械音のあと、画面に表示された今月の「利用可能残高」は、異世界雑貨の売上から日本側での仕入れ値、ガソリン代などの諸経費を差し引いた、わずか『8万3千円余り』だった。
坂本は表情を一つも変えることなく、画面の「お振込み」のボタンを迷いのない指先で押した。
振込先は、元妻が管理している、離れて暮らす一人娘の口座。金額の入力欄に、正確に『5万円』と打ち込む。
手数料が引かれ、画面に『振込完了』の文字が冷たく表示される。残された残高は、3万円余り。坂本は深く、胃の底から溜まった澱みを吐き出すように、小さく息を吐いた。
「……よし。これで今月も、親としての最低限の義務(固定費)は果たせたな」
二年前。IT企業のシステム管理職として、押し寄せるデスマーチと上層部からの理不尽な叱責の板挟みになっていた坂本は、ある日突然、深夜の会議室で過呼吸を起こして倒れた。心と体が同時に限界を迎えた。そのまま会社を実質解雇され、家庭を顧みる余裕を失っていた坂本から、元妻と一人娘は静かに去っていった。
親権は元妻に渡った。「せめて養育費だけは毎月、絶対に絶やさない」と固く約束したものの、無職になってからは貯金を切り崩すだけの日々。毎月すり減っていく通帳の残高を見るたび、夜も眠れないほどの恐怖に背中を焼かれていた。
だが、今は違う。異世界のスラムで、カイルたちが生まれて初めて流した涙とともに紡ぎ出した美しい工芸品が、液晶を越えて現代日本のお金に変わり、坂本に「父親としての尊厳」を再び果たさせてくれているのだ。
「自分のためだけなら、こんな限界集落で畑でも耕して、自給自足の引きこもり生活を送ればいい。……でも、私にはまだ、世界で唯一、払わなければならない『固定費』があるんです」
坂本は通帳をポケットに押し込むと、再び軽トラに乗り込み、入道雲が湧き上がる山路を登って、我が家である古い蔵へと帰還した。
蔵に戻り、パソコンを開いた坂本の目に、メッセージアプリの通知が飛び込んできた。送り主は元妻だった。用件以外では滅多に連絡をしてこない彼女からのメッセージに、坂本は少しだけ息を呑んで画面を開いた。
『今月も確かに受け取りました。いつもありがとう。それと、少し気が早いけれど、来春に娘が中学校に上がるの。制服代とか、指定のカバンとか、色々と物入りになりそうで……。もちろん、無理はしないでね』
添付されていたのは、いつの間にか見違えるほど大きくなった、ランドセルを背負って笑う娘の写真だった。
「……もう、中学生か」
坂本の目元が、一瞬だけ、かつての父親のそれに和らいだ。しかし、直後に「制服代」「特別支出」という現実の4文字が、彼の脳内表計算シートに重くのしかかる。今の月30個の限定生産のペースでは、現状維持が精一杯だ。娘の成長を支えるためには、さらなる「原資」が必要だった。
普通ならここで頭を抱え、再び絶望のデスマーチへ自ら飛び込む場面かもしれない。だが、今の坂本の背後には、あの徹底的にホワイト化され、高い再現性を誇る「異世界サプライチェーン」という最強の武器があった。
「……よし。やるべきことは決まりましたね。次のプロジェクトにかかりますか」
坂本がキーボードに向き合おうとしたその時だった。
カラン、とドアベルが鳴り、静寂を破るように軽快な足音が響いた。
「おい、サカモト!今日は一段と顔つきがカタいな。まるで領地に魔獣の群れでも迫っておるかのようなツラをしておるぞ!」
入ってきたのは、お気に入りのふかふかの座布団を小脇に抱えた大魔導士オルドだった。彼は坂本の表情をひと目見るなり、ニヤリと意地の悪い、しかしすべてを見透かしたような笑みを浮かべた。オルドはカウンターの端に座ると、坂本が何も言わずとも差し出した浅煎りの『ブレンド・オルドⅠ』を、嬉しそうに啜った。
「ふーむ、この容赦のない苦味と酸味……相変わらず美味いな。して、マスター。何があった?スラムの民をあの『システム』とやらで職人に仕立て上げ、国を救った男が、何をそこまで思い悩む?」
坂本は、コーヒーのドリップ器具を片付けながら、少しだけ自嘲気味に柔らかく笑った。
「いえ、オルドさん。魔獣の群れならまだ対策が楽なんですが……ちょっと『大事な株主』への配当金を増やしたくなりまして」
「かぶぬし?はいとうきん?」
オルドが長い耳をパタパタとさせ、聞き慣れない日本のビジネス用語に首を傾げる。
「要するに、もっとお金が必要になった、ということです。それも、今までのラインをただ回すだけではなく、利益率を劇的に跳ね上げる必要があります。……そこでオルドさん。スラムの工房の生産力をベースに、次は『高級ライン』の製品を作りたいんですが、あなたの知恵を貸してくれませんか?」
「高級ライン……!」
その言葉を聞いた瞬間、大魔導士の目の色が、獲物を見つけた獣のようにギラリと輝いた。知の最高峰である彼は、坂本がもたらす新しい概念が、どれほど世界を揺るがすかを誰よりも理解し、それを楽しんでいた。
「ひっ、ひっひ……!あのスラムの連中を、ただの歯車から、さらに上の『至高の領域』へと引き上げるか!面白い、実に面白いぞマスター!ワシの魔導知識の粋を、お主の『システム』とやらに組み込んでみせよう。乗ったぞ!」
オルドは楽しそうに声をあげて笑うと、坂本がカウンターに置いた日本の高級クッキーを豪快に齧った。
「まずは、あのヌメ革をこちらで染めた時に染料と魔力の影響がどう出るかじゃのう、しっかり教えてやるわい」
「話が早くて助かります、オルド先生」
坂本は裏紙を引き寄せ、ペンを構えた。液晶の向こうの市場をさらに引きずり込むための、新しい歪みが、静かに動き出そうとしていた。




