第22話:「パックご飯」と、スラムの劇的ビフォーアフター
日本側で10万円。その額が画面に並んだ翌朝、坂本は引きこもり生活の足である軽トラックの錆びついたハンドルを握り、山を下りていた。向かったのは、限界集落のふもとにある、古びたロードサイドの大型スーパーとホームセンターだった。
「いらっしゃいませー」の気の抜けた機械音を背に、巨大なカートを押す。坂本の動きに迷いはなかった。棚から次々と、パックご飯の段ボール、大容量のフリーズドライ味噌汁、一着数百円のフリースブランケットを放り込んでいく。さらにホームセンターの棚から引きずり出したのは、箱入りの固形石鹸、目の粗い泡立てネット、それにバルク品の安い歯ブラシの山だった。
軽トラの車載コンテナをそれらの物資でパンパンに満載し、蔵へと戻った坂本は、さっそく次の夜、ピアとガラム親方を呼び出した。
深夜二時。蔵の小汚いカウンターの上には、ビニールと段ボールの不恰好な山がそびえ立っていた。
「おいおいマスター、なんじゃこの荷物の山は。前にトップのガキにやってた怪しいプラ箱を、今度はこんなに山ほど独り占めしてどうするんじゃ」
カウンターの定位置で、コーラのペットボトルをラッパ飲みしていた老エルフ――オルドが、尖った耳をピクピクと動かして身を乗り出してきた。
「マスター……これは、一体何の冗談だ?スラムのハコが売れたって言うから、てっきり輝く銀貨が拝めると思って、若い奴らと期待して待ってたんだがよ。なんで銀貨の代わりに、こんな見たこともねえ怪しい布やプラスチックの山で報酬を支払うなんて言うんだ!」
ガラム親方が、目の前の白いプラスチックの容器を太い指の腹で小突き、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そうよ、マスター。あの時はアレンがカイルに手渡すのを遠くから見ただけだったけれど、手触りはよくてもこれに魔力は籠っていないわ。スラムの住民たちが欲しがっているのは、明日を生きるための『現物(お金)』よ。こんな奇妙な道具の山じゃ、全員は納得しないわ」
ピアもフリースのブランケットを指先でつまみ、困惑を隠せない様子だ。
労働の対価とは、手のひらでジャラジャラと鳴る金属の重みそのもの。それがこの世界の、それもスラムを生きる者たちの絶対のルールだった。しかし、カウンターの奥に立つ坂本は、いつも通り死んだ魚の目のまま、平熱の声で言った。
「まぁ、そう焦らずに。試して下さい」
坂本はパックご飯をもって台所に入り電子レンジにぶち込む。
「ちょっと待って下さいね」
オルドが興味深そうに見つめる中、電子レンジが「チーン」と気の抜けた音を立てた。扉を開けた瞬
間、猛烈な湯気とともに、どこか懐かしい、圧倒的な穀物の香りが蔵の湿った空気に紛れ込む。
「熱っ、熱ちちっ!」
取り出した温められたばかりのパックご飯を開け、坂本は手際よく水で濡らした素手で掴むと、粗塩を少しだけ振り、流れるような動作で三角形の塩むすびを握って皿に転がした。
「まずは食べてみてください。前回はカイルたちにそのままで渡しましたが、温めると化けます。話はそれからです」
三人は顔を見合わせ、恐る恐るその真っ白に輝く熱々の塊を口に運んだ。その瞬間、咀嚼の音がピタリと止まる。
「――な、なんだこれ……っ!?」
ガラムの目が、こぼれそうなほど見開かれた。
「モチモチしてやがる……!なんだこの吸い付くような食感は!噛めば噛むほど、砂糖でも入ってんのかってくらい濃厚な甘みが溢れてきやがるぞ!」
「美味しい……っ!」
ピアは感動のあまり、長い耳を激しく震わせた。
「信じられない。私たちがいつも食べている、あのパサパサした大麦のパンとは全然違う。お腹の奥から、じわっと熱い塊が満ちていくのが分かるわ……!」
驚愕する三人を見届ける坂本の目は、冷徹なシステム管理者のそれだった。
「いいですか。今回、利益のすべてを金貨で渡さず、あえてこの物資で還元するのには、明確な理由があります。……最大のリスクヘッジ、つまり『病欠による生産ラインのストップ』を防ぐためです」
「びょうけつ……?ラインのストップ?」
ガラム親方が首を傾げた。
「ええ。いくら完璧なシステムを組んでも、現場の人間が病気でバタバタと倒れて出勤できなくなれば、生産力はゼロになります。泥にまみれ、糞尿の混ざった水を飲んでいるスラムにおいて、伝染病や体調不良による欠勤は、サプライチェーンにおける最大のボトルネックです。だからこそ、私は彼らの『衛生環境の改善』に投資します」
坂本はカウンターの上に、ずらりと固形石鹸と泡立てネット、歯ブラシを並べた。
「体を清潔に保ち、病気を予防するのは、立派な業務の一環です。親方、ピアさん。工房の入り口に必ず『手洗い場』を作ってください。そして、作業を始める前に、この石鹸をネットで泡立てて、全員の手を洗わせてください。文字の読めない彼らのために、お米の袋や石鹸には、このシールを貼っておきました」
坂本が差し出した物資の表面には、黄色い丸の中に、ごくシンプルな『笑顔のマーク』のシールが貼られていた。
「『これを使い、手を洗えば、お腹いっぱいの米と温かい服が得られて幸せになる』。文字が読めなくても、このマークさえ見れば直感的に理解できるよう、行動経済学的なアプローチを仕込んであります。これを現地へ運んでください」
「ひっ、ひっひ……!」
オルドが震えるように笑い出した。
「恐ろしい男じゃな、マスター。民をただの労働力としてこき使うのではなく、健康状態までをも『管理』して生産性を最大化させるか。冷徹なまでの合理性、だがこれほど確実に民を救う道もない。ガラム、ピア、マスターの言う通りにするのじゃ」
数日後。王都のスラム街は、建国以来、最大の激変を迎えていた。
「おい、手を洗ったか!」
「あたり前だろ!ほら、この『えがおのマーク』の石鹸、すげえいい匂いがするんだ!」
急造された工房の入り口では、スラムの若者たちが競い合うように、日本の泡立てネットでモコモコに膨んだ白い泡を手に擦り付け、爆笑しながら手を洗っていた。泥と汚物にまみれていた彼らの手は綺麗に洗浄され、爪の間の垢まで落とされている。
工房内は、坂本が叩き込んだ「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)」が自発的に、かつ完璧に実践されていた。床にはゴミ一つ落ちておらず、室内には日本の石鹸の清潔で優しい香りが漂っている。
作業が終われば、彼らにはあの笑顔のマークがついたパックご飯と缶詰、そして体を温めるフリースブランケットが支給された。「真面目に手を洗い、ルールを守れば、絶対に飢えない。凍えない」。その絶対的な安心感が、彼らの荒んだ心を根底から変えていった。
職の安定と衛生環境の爆発的な向上は、治安の劇的な改善という形で王都に現れた。
「……あそこはもう、スラムではない。別の綺麗な街だ」
見回りの衛兵たちは呆然と立ち尽くしていた。
その日の夕刻、王宮の最上階。若き国王ライナスは、アレンから提出された最新の「王都治安・衛生報告書」を手に、静かに震えていた。グラフ化された犯罪率は信じられない角度で右肩下がりを記録し、疫病の発生件数は一件もなかった。
ライナスは、デスクの上で白金の鍵をチリチリと弄びながら、窓の外を見つめた。
「アレン……。マスター坂本は、ただ我が国の組織の問題を修正するだけの男ではなかったのだな」
ライナスは深く、重い息を吐き出した。
「彼は、システムという名の智慧を使い、国の財政を救うだけでなく……打ち捨てられていた民の、その『魂』までをも作り直しているというのか……」
窓の向こう、スラムだった場所には、かつての澱んだ闇ではなく、どこか規則正しい、均一な生活の灯火が静かに灯り始めていた。




