サイドストーリー:マスターの休日と深川丼
翌日。日本海からの潮風も今日ばかりはいくらか穏やかで、古い木造家屋の隙間から、のんびりとした昼下がりの光が畳の上に伸びていた。 中庭へ続く蔵の戸の内側には、手書きの『本日定休日』の札がぶら下がっている。当然錠前もしっかり閉めてある。
グレーのパーカーの袖を捲り上げ、坂本は一人、深く息を吐きながら腰を伸ばした。エプロンを着けないだけで、肩の肉が随分と軽くなった気がする。 午前中、近所の漁師が持ってきてくれたバケツの中身は、まだ潮の匂いがきつかった。言われた通り念のため少し泥水を吐き出させ、きれいに洗ったアサリを、坂本は母屋の台所で静かに見つめていた。
「さて、はじめますか」
土鍋に張った昆布出汁が、小さな気泡を上げ始める。そこへアサリを殻ごと放り込む。 火が通るにつれて、パカパカと小気味よい音が狭い台所に響き渡った。殻の隙間から溢れ出た濃厚なエキスが出汁を白く濁らせ、一気に濃い磯の香りが鼻腔を突く。 少し辛口の麦味噌を箸の先で溶き、雑に刻んだ長ネギを放り込む。 炊きたての米を丼に盛り、熱々の汁をご飯が溺れるほど、具ごと一気にぶっかけた。 深川丼。泥臭くて、気取らない飯だ。 お盆に乗せて居間の座布団へ運ぼうとした、その時だった。
コンコン、コンコンコンコン!! ガチャガチャガチャ!!
「おいサカモト! 開けるのじゃ! 鍵がかかっておるぞ! 職務放棄か!?」
「サカモト殿! 私だ、ライナスだ! 扉がびくともしないのだが、もしやアレンの呪いか!?」
蔵の奥、あの黒い扉から入ってきた二人が、中庭側の戸をぶち壊さんばかりに叩いている。その凄まじい連打音と、聞き飽きた声が響いてきた。 箸を持ったまま、坂本は天井を見上げて長い溜息を吐き出した。
「……お二人とも。いくら友達としてならって言ったからって、定休日の戸を壊す勢いで叩かないでください」
鍵を外して中庭側の戸を引き開けると、眩しい光と共に、二人の男がギチギチに境界線へ張り付いていた。 当然、彼らは魔力がない敷居から先へは一歩も入れない。目に見えない結界のように阻まれ、ただ上半身だけを必死にこちらへ突き出そうとしている。
「何を言うか! 昨夜から我が脳内は未知の貝汁の想定で完全に処理能力の限界突破しておったのじゃ! 敷居を跨げぬなら、この蔵の中で待つまでよ!」
「そうだぞ、サカモト殿。午前中の閣議の間も、アレンが真面目に報告している後ろで、私の頭の中ではアサリの殻がパカパカと踊り続けていたのだ。蔵の椅子ならいくらでも座って待つ!」
しるこサンドの袋を大事そうに抱えた老魔導士と、明らかにサイズが合っていないアレンの私服を着た若き王。一国のトップたちが、犬のようにフガフガと鼻を鳴らし、坂本の手元のお盆を凝視している。
「……分かりましたよ。大人しくそっちの席で待っててください。今、そちらのカウンターまで持っていきますから」
坂本は苦笑を噛み殺しながら、アサリがまだ山ほど残っているバケツの元へ戻った。
再び蔵へ入り、カウンター越しに熱々の丼を二人の前に差し出す。
「はい、お待たせしました。せっかくの休みだったんですけどね」
「うむ! 境界線の向こうからでも届くこの香り、辛抱たまらん! いただきますじゃ!」
「いただきます、サカモト殿! これで私の脳の疲れも完全にリフレッシュされるな!」
ガツガツ、ズズッ――。
境界線を越えられないもどかしさをぶつけるように、二人は凄まじい勢いで丼をかき込み始めた。
「な、なんだこれは……美味すぎる……!」
「アサリの旨味が、米の中に完全に溶け込んでおるぞ!」
坂本はカウンターの隅のパイプ椅子に腰掛け、自分の分の丼を手に取った。 熱い汁を吸ったネギが、口の中で甘く弾ける。 正面では、大魔導士と若き絶対君主が、口の周りを味噌で汚しながら熱い飯に格闘している。
外からは、雲一つない青空の下、遠く単調な波の音だけが聞こえていた。 坂本は最後の一口を喉に流し込み、空になった丼を静かにお盆に戻す。 賑やかな咀嚼音をBGM代わりに聞きながら、ぬるい昼下がりの風に目を細め、坂本はただ、次のコーヒーの湯を沸かすタイミングだけを考えていた。




