第17話:ホワイト国家の誕生と、マスターの休日
「稟議、承認」
深夜二時。限界集落の静寂に佇む蔵の喫茶店に、パチン、と小気味よい木製のハンコの音が響き渡った。
「ふぅ……。サカモト殿、今夜も最高の気分だ」
カウンターのパイプ椅子に深く腰掛け、満ち足りた笑みを浮かべているのはライナス国王だった。かつて過労死寸前の土気色をしていた若き王の姿はそこにはない。その双眸には、一国の長たる圧倒的な余裕が満ちあふれていた。
「お疲れ様です、陛下。今夜はずいぶんとお元気そうですね」
坂本が温かいお絞りを差し出すと、ライナスはそれをありがたそうに受け取り、顔を拭いながら嬉しそうに報告を始めた。
「聞いてくれ。今日、隣国との国境における関税交渉という、我が国最大級の大仕事を終わらせてきたのだ。……それも、アレンとバルドスが何重ものチェックを重ねて最後に持ってきた書類の末尾に、私が『許可する』と書いてハンコを捺すだけの、わずか三十秒でな」
「それは素晴らしい。システムが完全に機能していますね」
坂本は淡々と頷きながら、棚からワイングラスを取り出した。
国は見事に生まれ変わった。各部署に正式な決裁権が移譲された結果、国王の執務室に積み上がっていた書類は従来の100分の1にまで激減。現場の文官や騎士たちも、「自分たちの判断で予算を動かせる」という当事者意識が爆発的に向上し、かつてないスピードで国政が回り始めていた。
古い特権を振りかざして無理難題を押し通そうとする老害貴族たちの嫌がらせも、今や最高顧問(シニアアドバイザーとなった重鎮バルドス公爵が、「おいジジイ、正式な稟議ルートを通せ!ルールを無視する奴の書類はワシの権限で全て凍結する!」と規程を盾にして前線で叩き潰すため、完璧な防衛システムが完成していた。
「陛下、お祝いに、私が持っている中で最高品質のコーヒーを淹れました。コロンビア・ゲイシャです。まずはグラスを回して、香りをかいでみてください」
坂本がワイングラスに注いで差し出したのは、琥珀色に輝く一杯だった。ライナスが静かにグラスを傾け、鼻腔にその香りを迎え入れた瞬間、大きく目を見張った。
「……っ!?なんだこれは、これが本当にコーヒーなのか……?まるで、咲き誇るジャスミンの花や、完熟した果実のような、圧倒的に華やかなアロマが脳を優しく刺激する……。口に含めば、爽やかな酸味の後に、極上のハチミツのような甘みがいつまでも余韻として残る……!」
「美味そうな。サカモト、我の分も早く出すのじゃ」
部屋の隅の特等席で、相変わらずしるこサンドをキープしていたオルドが、待ちきれないとばかりに空のマグカップを差し出す。
「オルドさんにも今淹れますから、少し待ってください」
ライナス国王は、ゲイシャの余韻に浸りながら、懐から重厚な輝きを放つ一本の美しい鍵を取り出し、カウンターへ静かに置いた。白金の鍵。そこにはエルディア王国の王家の紋章が精緻に刻印されていた。
「サカモト殿。これは我が国から貴殿への、最大級の感謝の証だ。この白金鍵を持つ者は、エルディア王国におけるすべての関税を永久に免除し、貴殿が店で必要とするあらゆる物資や食材の調達を、国庫の予算をもって一生涯保証する。……貴殿のくれた当たり前の事務知識が、我が国を滅亡の淵から救ってくれたのだ。これでも足りないくらいだ」
白金の鍵を見つめながら、坂本は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。かつて日本の縦社会において、私はただの都合よく使い潰された中間管理職だった。深夜残業に追われ、心を磨り潰され、ドロップアウトしてこの限界集落の蔵へ逃げ込んできた敗残者だ。
自分の持っている事務の知識やプロジェクトマネジメントの経験なんて、日本では誰も褒めてくれない、代わりのいくらでもいる当たり前のスキルだと思っていた。だが、その当たり前が、過労死寸前の一人の青年を救い、一国の歪んだブラック組織を、誰もが誇りを持って健やかに生きられる世界へと作り変えたのだ。
(ああ……私がこれまでサラリーマンとして泥水をすすってきた日々は、無駄じゃなかったんだな)
心にずっと空いていた、冷たい孤独の穴が、目の前の王の笑顔と、ゲイシャの温かい湯気によって、少しずつ満たされていくようだった。
「……ありがとうございます、陛下。大切に使わせていただきます」
坂本は静かに頭を下げ、その白金の鍵をそっと胸のポケットに収めた。
「さて、と」
時計の針が午前四時を回った頃、坂本はエプロンの紐を緩めながら、常連の二人に向かって穏やかに微笑んだ。
「明日はこのお店、完全にお休みにしますね」
「ぬっ!?完全休業だと!?」
オルドが悲鳴のような声を上げる。
「サカモト、それは困るのじゃ!我の明日の珈琲と夜食はどうなる!」
「マスターの私がシフト管理をしないと、この店がデスマーチになりますからね。明日は近所の漁師さんから、泥を抜いた新鮮な新物のアサリをたくさん分けてもらう予定なんです。だから明日の昼は、自分のためだけに、深川丼を作ろうと思っていまして」
「ふかがわ、どん……?」
ライナス国王が、その未知の響きにゴクリと喉を鳴らした。
「アサリという貝をね、日本の麦味噌と濃いめの出汁で、ネギと一緒にさっと短時間で煮込むんです。アサリの濃厚な磯の旨味が出汁に溶け出したところを、炊きたての熱々のご飯の上に、汁ごとドバッとかけて、一気にかき込む。最高に贅沢な日本のファストフードですよ」
坂本の口から語られるディテールに、オルドもライナスも、すでに頭の中が深川丼のことでいっぱいになっているようだった。
「サカモト……いや、サカモト殿……!我はその、明日は『休日出勤』でも一向に構わんのだが……!」
「私もだ、サカモト殿!王の権限をもって、明日の休日を『有給休暇の買取』と変更し、その深川丼というものをだな……!」
「ダメです。お店は完全にお休みです」
子供のように目を輝かせて食い下がる、一国を救った大魔導士と、覚醒した絶対君主。二人の必死な様子に、坂本は思わず、今日一番の、心からの明るい笑みをこぼした。
「……まぁ、お二人がどうしてもっていうなら、私のプライベートに、友達として招待するくらいなら、いいですよ。アサリはたくさんありますから」
「おお、さすがは我が友サカモトじゃ!」
「職務権限で『友人の特権』を行使させてもらおう!」
坂本は空になったワイングラスを流し台へ運び、静かに蛇口をひねった。冷たい水が、手のひらの熱をゆっくりと奪っていく。外からは、遠く単調な波の音だけが聞こえてくる。深夜の静寂。ぬるい夜風が蔵の空気をつつむ中、坂本は小さく息を吐き出し、明日やってくるかもしれない友人たちのために、出汁の準備を始めるべく、静かにケトルの火を消し、静かに明日の仕込みを始めた。




