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第16話:若き国王、「決裁権(ハンコ)」を配る

 深夜二時半。日本海からの嫌に冷たい潮風が、蔵の硝子窓をがたがたと揺らしていた。奥の黒い扉が、今にも蝶番が外れそうなほど弱々しく開く。


「……た、助けてくれ……。ここに来れば……救われると……オルドから……」


 入ってきたのは、金糸の刺繍が施されたロイヤルブルーの外套をまとい、歪んだ宝冠を頭に載せた若者――エルディア王国の最高権力者、ライナス国王だった。だが、その顔には生気がまるでない。紙のように真っ白で、目は完全に焦点が合っていなかった。そのまま畳の上へ、糸の切れた人形のようにどさりと崩れ落ちた。


「おい、ライナス様じゃねえか!?おいサカモト、大変じゃ、この国の頂点が文字通り過労死しかけておるぞ!」


 座布団の上でしるこサンドをのんびり齧っていたオルドが、驚きのあまり飛び起きて叫んだ。坂本は倒れた若き王に駆け寄り、その浅い呼吸と極限のストレスで細かく震える手を見て、胃の奥がキリリと痛むような既視感に襲われた。アレンが書類を様式化し、レオノーラが前線を安定させ、ピアとガラムが現場を爆速で回した。王国のすべてが効率化され、書類の処理速度が爆発的に向上した。……その結果がこれだ。


 すべての最終決定権を持つ国王の執務室に、毎朝、山のような規格統一された書類が、信じられない速度で積み上がることになった。ボトルネックが一番上に移動しただけ。すべてのしわ寄せを、この若い王がたった一人で受け止め、脳が完全にオーバーフローを起こしている。


「陛下、何も考えなくていいですから、そこに横になっていてください。今、脳を無理やり叩き起こすものを作ります」


 坂本は母屋の台所へ走り、冷凍庫から冷凍讃岐うどんを引っ張り出した。今の王に必要なのは、咀嚼するエネルギーすら使わずに胃に流し込める高純度の炭水化物、それから塩分と油分だ。鍋に白だしを張って一気に沸騰させ、冷凍うどんを投入する。一分で驚異的なコシが蘇る。それを器に盛り、熱々の出汁を注ぐと、上から惣菜のエビ天を乗せ、さらに大量の天かすをこれでもかと放り込んだ。ネギを散らす。出汁の香りと天ぷらの油が混ざり合った、深夜に食べてはいけないジャンクな一杯だ。


「陛下、起き上がれますか。これを食べてください」

「う……。スープ、か……?私はもう、文字を見るのも……」


 ライナスはうわごとのようにつぶやきながらも、漂う出汁と油の暴力的な香りに胃袋を掴まれたらしく、震える手で箸を握った。そして、うどんを一本、口に手繰り寄せた。


ツルッ……。


「――ッ!?!?ぐ、ううううっ……!」


 若き王の身体が、電流が走ったように硬直した。


「な、何だこの『麺』という食べ物の圧倒的な弾力は……!噛むたびに、脳の奥にモチモチとした快感が響き渡る……!そしてこの汁、透き通っているのに、喉を焼くような強烈な旨味と、油のコクが、飢餓に瀕していた私の身体に怒涛のように染み渡っていく……!」


 ライナスは、我を忘れてうどんを啜った。サクサクだったエビ天が出汁を吸ってフヤフヤになり、衣から溶け出した油が出汁の美味さをさらに凶悪にしていく。天かすを汁ごと胃袋に流し込むたびに、枯渇していたブドウ糖が脳へとダイレクトに送り込まれていく。


「ぷはっ……!ああ……生き返った……。脳の霧が、一瞬で晴れていくようだ……」


 器を完全に空にしたライナスは、ふぅと長い溜息を吐き、ようやく人心地ついた顔で坂本を見つめた。


「サカモト殿……。私は、部下たちを信じて王宮の改革を応援していたのだ。彼らは完璧に仕事をこなしてくれた。なのに、なぜ私は死にかけているのだ?毎朝、机の上に関税や道路補修の書類が千通も並び、私が全てにサインをせねば国が止まる。私はどうすればよかったのだ……」


 涙を浮かべる若き王に、坂本はパイプ椅子を引いて座り、静かに告げた。


「陛下。あなたは部下を信用していますが、本当の意味で信頼して、権限を配っていません。要するに、権限の抱え込みです」

「権限の、抱え込み……?」

「金貨3枚の文房具を買うのにも、陛下のサインが必要な状態、それ自体がシステムの欠陥なんです。人間一人の脳で処理できる情報量には限界があります。だから、現代日本の組織の手続きを教えます。職務権限規程と、稟議制度です」


 坂本は大学ノートを開き、すらすらと組織のピラミッド図を描いていった。


「陛下、全ての書類をあなたが読む必要はありません。小規模な案件はアレンさんやレオノーラたちの判断だけで、あなたのサインなしで通させてください。彼らに責任を持たせるんです。陛下の手元に届くのは、国家の命運を分ける大型案件だけでいい」

「しかし……それでは、部下が不正をしたり、間違った判断をしたらどうする?」

「だから稟議ルートを作るんです。担当者が書き、課長がチェックし、部長が判子を押し、何人ものチェックを経て、内容の保証と責任の分散を行う。そして、その何重ものフィルターを通り抜けてきた最後の最後の一枚に、王であるあなたがどっしりと承認印を押し、万が一の時はすべての責任を背負う盾になる。……それこそが、組織における絶対君主の姿ですよ」

「……っ!」


 ライナス国王の顔が、今度は驚愕に強張こわばった。すべてを自分で抱え込み、チェックすることだけが王の仕事ではない。部下に権限を配って現場を回させ、自分は最後の責任の盾として君臨する。その重みに気づいたらしい。


「……見事だ、サカモト殿。私は、王としての役割を勘違いしていたようだ。明日、即座に王宮でその職務権限規程を発布する!」


 若き王は、日本の冷凍うどんによってエネルギーを、そして知恵によって覚醒を果たし、力強い足取りで夜の向こうへと帰っていった。


 翌日の深夜。


「サカモトさぁぁぁぁぁん!!陛下が頭おかしくなっちゃいましたぁぁぁ!!」


 蔵の扉を開けて飛び込んできた財務部筆頭文官アレンは、泣きながらカウンターに一枚の羊皮紙を叩きつけた。そこには、国王のサインと共に『金貨5000枚までの全ての予算決裁権を、財務部アレンに委譲する』と書かれていた。


「いきなり金貨5000枚の決裁権ですよ!?サイン一つで国のお金が動くんですよ!?私、責任感で圧し潰されて一睡もできませんでした!これは権限委譲という名の、合法的な過労死の押し付けですぅぅぅ!!」

「がははは!アレン、よかったではないか!出世じゃな!」

「うるさいですよオルド様!胃薬!現代日本の強い胃薬をくださいサカモトさん!!」


 頭を抱えて絶叫するアレンを眺めながら、坂本は静かにコーヒーを淹れるのだった。

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