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第15話:現場の安全第一、王宮を揺るがす

「ワンカップ」の夜から一週間後の深夜二時。蔵の黒い扉が静かに開いた。入ってきたピアとガラム親方の顔を見た瞬間、坂本はカウンターの奥で小さく息を吐いた。二人の顔には、一週間前のようなピリピリとした殺気や疲弊はカケラもなかった。大きなプロジェクトを完全にコントロールしている者だけが持つ、不敵な充実感だ。


「サカモト殿!約束通り、素晴らしい成果を引っ提げて戻ってきたわよ!」

「おう、サカモト!これはお前さんへの、俺たち現場の職人全員からの礼だ。受け取ってくれ!」


 ドスン、とカウンターに置かれたのは、見事な金銀の魔導装飾が施された、鈍い銀色に輝く小ぶりの斧だった。


「最高級のドワーフ鋼を鍛え上げた『薪割り斧』だ!お前さん、いつも母屋の裏で薪を割ってるんだろ。職人の意地を教えられた礼だ、使ってくれ!」

「ありがとうございます。大切にしますね」


 坂本が冷たい刃の感触を確かめていると、部屋の隅の座布団から、むくりと怪しい影が起き上がった。


「ぬう……。ガラムよ、我がサカモトに贈るための特級の魔導杖を打てと頼んだ時は『忙しい』と撥ね付けたクセに、職人のエコヒイキは目に余るのう」


 当然のように居座っていたオルドが、不満げに髭を震わせながらコーヒーをすする。


「がはは!オルド様、お前さんらの出す仕様書は文字ばかりで現場の血が通ってねえんだよ!だがサカモトのくれた言葉は違った。今や俺たちの現場がどうなってるか、教えてやるぜ!」


 ガラムはカウンターのパイプ椅子にどっかりと腰掛け、身振り手振りを交えて語り始めた。


 今、王宮の建築現場では、異世界の誰も見たことがない異様な活気が生まれていた。毎朝、何百人もの頑固なドワーフや魔導士たちが整列し、全員で右手を前に突き出し、「――足場よし!道具よし!今日の工事も、安全第一、ヨシ!!」と、地鳴りのような声で指差し呼称をしてから作業に入るのだ。最初は恥ずかしがっていた職人たちも、ガラムが先頭に立って叫ぶため、今やこれをやらないと気持ち悪くて作業に入れない体にされていた。


「何より凄まじいのは、あの『5S』の効果よ」


 ピアが目を輝かせ、オルドのしるこサンドを一枚奪い取って口に放り込みながら言った。


「道具の定位置を完全に決めたおかげで、現場から『あのノミがねえ』っていう無駄な時間が完全に消滅したの。しかも、床や足場を常に清掃させた結果、職人が資材に躓いて転落するような現場事故が、この一週間なんと無し!安全第一の点検時間を工程表に組み込んだから、誰も焦らずに最高のパフォーマンスを発揮してるわ!」

「それだけじゃねえぞ、サカモト」


 ガラムが身を乗り出し、ニカッと白い歯を見せた。


「一番効いたのは、あの『いんせんてぃぶ(報奨金)』って奴だ。早く安全に終われば、浮いた予算の3割を職人のボーナスにするってルールを決めてくれたんだ。……そしたらお前、現場の目の色が変わったぜ!」


 これまでは「早く終わらせても給金は同じだから、適当にサボって時間を潰そう」と考えていた職人たちだった。しかし、早く、綺麗に終わらせれば、その分だけ自分たちの懐に直接金貨が転がり込んでくる。


「今じゃ、少しでもサボってガントチャートの線を下回りそうな奴がいたら、周りのドワーフどもが『おいテメェ!俺たちのエール酒代が減るじゃねえか!5Sしろ!手を動かせ!』って、お互いに注意し合ってんだ。俺が怒鳴る必要すらねえ、自発的な最強の軍団になっちまった!」


「進捗の見える化」と「安全第一によるリスクヘッジ」、そして「成果の適切な還元インセンティブ」。日本の優れたマネジメントが完全に噛み合った時、現場は命令されて動く奴隷ではなく、自ら利益を最大化させるために動く「自律的な組織」へと変貌する。


「結果として、私のガントチャートの予定よりもさらに早く、しかも過去最高の精度で王宮の城塞や街道の修繕が次々と終わっているわ。アレンも『予算の無駄な余剰発注が一切なくなった』って大喜びよ」

「はい、今夜のご褒美です。ガラム親方も、どうぞ」


 坂本は手元で仕上げていた皿を二人の前に置いた。サクサクの自家製シュークリームだ。


「ぬおおおおおっ!?」


 真っ先に叫んだのはオルドだった。


「我の分は!?共同経営者たる我が分のしゅーくりーむはどこじゃあ!」

「オルドさんはそこにしるこサンドがあるでしょ。動いてない人はおあずけです」


 オルドのジタバタとした抗議を無視して、ガラムは巨大な手で小さなシュークリームを摘み、がぶりと豪快に噛みついた。サクッ……。


「ん、んんんんんんっ!?!?なんだこれはぁぁぁぁっ!」


 ガラムの太い髭が、驚愕でピンと逆立った。


「口の中で、外側のサクサクした皮と、中から溢れ出たこのとろっとろの濃厚な甘い汁が爆発しやがった……!職人の精緻な技を感じる。この皮とクリームの組み合わせ、完璧に計算し尽くされてやがるぞ!」

「でしょ!?美味しいでしょガラム!」


 ピアも自分のシュークリームを幸せそうに頬張り、口の周りを白く染めながら笑っている。


「美味い、美味すぎる……!サカモト、俺は確信したぜ。お前さんのこのお菓子も、あの『あんぜんだいち』の標語も、現場を心底愛してる人間にしか作れねえ本物の芸術だ。……これからも、俺たちの現場を支えてくれよな!」


 赤ら顔のドワーフの棟梁と、笑顔の天才建築士、そして相変わらずおやつをねだる大魔導士。坂本は、賑やかに笑い合う彼らのために、お代わりの温かいコーヒーをサーバーから静かに注いだ。外の世界を拒絶して、ひっそりと開いた限界集落の蔵の喫茶店。だが、そこから発信された現代日本の「知恵」は、異世界の歪んだ仕組みを、現場の末端に至るまで完全にホワイトな、誰もが誇りを持って生きられる世界へと作り変えていった。


 坂本は空になったガラス鉢を流し台へ運び、蛇口をひねった。冷たい水が手に触れる。外からは、遠く単調な波の音だけが聞こえてくる。深夜の静寂。ぬるい夜風が蔵の空気をつつむ中、坂本は小さく息を吐き出し、次のコーヒーを淹れるためにケトルの火を調整した。

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