第18話:スラムの灯火と「細分化(ライン生産)」の灯
午前二時半。限界集落の奥で、カビ臭い湿気を吸って膨らんだ漆喰に嵌め込まれた黒い木製の扉が、錆びついたドアベルを鈍く鳴らした。入ってきた男の仕立ての良い上着からは、高級な石鹸の匂いに混じり、焦げ付いた焦燥の臭いが漂っていた。かつて目の焦点が合わなくなるまで書類の山に殺されかけていた頃のライナスに比べれば、背筋は伸びていた。
あの『稟議制度』だの『職務権限規程』だのという、日本の会社員が残していった窮屈な仕組みが回り始めたおかげで、彼はもう、ハンコを押し続けるだけの機械になる必要はなくなっているはずだった。だが、カウンターの椅子に崩れ落ちるように腰掛けた若き国王の目は、濁ったドブ川のような色をしていた。ライナスは組んだ両手に額を押し付け、胃の底から絞り出すような溜息を吐く。
「綺麗になりすぎたのだ。マスター。書類の通り道が真っ直ぐになればなるほど、その隅っこに溜まった黒いドロが、嫌でも目につく」
「ドロ、ですか」
坂本は、掠れた声で返した。四十半ばにもなって、いまだに深夜のワンオペを続けている冴えない男。二十年、理不尽な上司の罵倒と、客からの無理難題を胃薬で流し込んできた男の皮膚には、他人の不幸にいちいち揺さぶられない、冷え切った平熱が染みついている。
「おい小僧、夜中に他人の酒を不味くするツラを見せるな」
カウンターの端で、クシャクシャのティッシュで指のポテトチップスの粉を拭き取っていたオルドが、意地の悪い笑みを浮かべた。『しるこサンド』は食べ飽きたのか市販の安いポテトチップスの袋をバリバリと下品に鳴らすこの老エルフは、国政の最高顧問だ。だが坂本の淹れる浅煎りコーヒーの酸味と、日本の百円ショップの便利グッズに骨抜きにされ、今やただの「タチの悪い夜更かしの常連」として、この薄暗い蔵に居座り続けている。
「……スラムの話です」
ライナスは、喉にへばりついた不快なものを吐き出すように言った。
「どれだけ兵を回して路地を漁っても、翌朝にはまた新しい死体と泥棒が転がっている。炊き出しの粥を配れば、翌日にはその倍の人間が、皿を持ってぼんやりと列を作るようになった。腹が膨れれば誰も泥を捏ねて働こうとはせん。施せば施すほど、あいつらは自分の足で立つ方法を忘れていく。……マスター、人間は優しさで殺せるのだな」
坂本の脳裏に、昔の記憶がかすかにフラッシュバックする。元請けから唐突にハシゴを外され、シャッターを下ろした地方の下請け工場。煙草の煙とパチンコの電子音だけが響く町で、生活保護の申請書を握りしめていた男たちの、あの、全てを諦めたような目。
「ふん」
オルドが指についた塩を舐めながら、冷たく鼻を鳴らした。
「文字も書けぬ、己の名前すら怪しい有象無象だ。魔導の回路も見えん連中を、どこのギルドが拾う。王宮の金蔵に巣食う白蟻と同じよ。間引きでもせんと減りはせん」
坂本は、台所に向かい冷蔵庫を開けた。冷気が、台所の籠った空気をわずかに叩く。冷凍庫から氷を掴み出し、厚手のグラスに叩き込む。カラン、と鋭い音が響いた。缶を開けグラスに注ぎ、手早く包丁を振るいカウンターに戻る。
「陛下」
「まずは、頭の熱を下げてください。話はそれからです。……オルドさんも、口を動かしたいならこれを」
注がれたのは、無色透明の液体だ。シュワシュワと弾ける強炭酸の気泡とともに、青臭い、暴力的なまでに瑞々しいレモンの匂いがカウンターを満たしていく。
「『レモンサワー』です。あと、これ」
結露で濡れたグラスの横に置かれたのは、包丁の腹で雑に切られ、粗塩を振られただけの真っ赤な『冷やしトマト』。
「酒、か?」
ライナスは、促されるままグラスを掴んだ。喉に突き刺さるような炭酸の痛みのあと、容赦のない酸っぱさと、皮の苦味が舌の奥を殴りつける。カッと胃の腑が熱くなり、限界まで張り詰めていた王の脳の血管が、じんわりと緩んでいくのが傍目にも分かった。
「――っ、酸っぱい……だが、冷たいのが、美味い」
掴んだ箸で、トマトを口に押し込む。冷えた果肉が潰れ、濃厚な甘みと、塩気が、乾ききった喉にじっとりと吸い込まれていった。
「ほう、美味そうなものを隠していたな」
オルドが横から坂本の分のグラスをひったくり、一気に煽る。
「――くうっ!喉が焼けるような炭酸じゃな。だが、この酸味がトマトの汁と混ざると……悪くない。胃袋が動き出す音がするわ」
「ふう……」
ライナスが、椅子の背もたれに深く体重を預けた。少しだけ、目の濁りりが消えている。
「それで、マスター。私はどうすればいい。あのドロを、どうやって片付ければ」
「彼らに必要なのは、憐れみじゃありません」
坂本は、カウンターの水滴を布巾で拭きながら、冷淡に言った。
「ただの、出番です。日本の困窮者支援でもそうでした。可哀想だからと小銭を握らせるんじゃない。まずは、自分が社会の役に立っているという、最低限の『錯覚』……いや、『尊厳』を与えるのが先です」
「出番?」
ライナスが眉を寄せる。
「だが、彼らは文字すら読めんのだぞ。ナイフの持ち方すら知らん。そんな者をどこが雇う」
「なければ、箱を作ればいい。彼らを押し込むための『王立工房』です」
「おいおいマスター、大魔導士のワシでもそれは無理じゃと突っ込むぞ」
オルドがトマトの種を飛ばしながら笑った。
「一人前の職人になるには、親方の背中を見て、何年も泥水をすすって技を盗むのじゃ。文字も読めん、我慢も知らんスラムの民が、そんな繊細な真似をできるわけがなかろう。どうせ、高価な材料をゴミに変えて終わるだけじゃ」
それがこの世界の、そして坂本がいた世界の古い職人たちの、絶対の常識だった。しかし、坂本の目は死んだ魚のままだ。
「陛下。オルドさん。長年、日本の組織でただの歯車をやっていた私から言わせれば、それは『教える側の傲慢』です」
「何だと?」
「仕事に、特別な才能や個性なんていりません」
坂本はカウンターの引き出しから、使い古したボールペンと、裏紙を取り出した。
「誰がやっても同じ品質で、同じゴミが生まれないようにする。それが『システム』です」
ペンが裏紙を引っ掻き、一本の直線を描く。それを、等間隔にいくつもの線でぶった切っていく。
「日本の工場が、世界を札束で殴っていた頃の知恵です。『分業制(ライン生産)』と言います」
「らいん……?」
オルドが、チップスの袋を握ったまま、ノートに顔を近づけた。
「ええ。例えば、一足の革靴を作る工程があるとします。こっちの職人は、最初から最後まで一人で縫い上げようとする。だから何年も修行がいるんです」
坂本は、区切られたマスをペンの先でトントンと叩いた。
「ですが、その工程を、極限まで『細分化』したらどうなりますか?『革をこの型通りに、ただハサミで切るだけ』の奴。『切られた革に、一箇所だけキリで穴を開けるだけ』の奴。『その穴に、ただ紐を通すだけ』の奴。……これなら、文字が読めなくても、今さっき路地裏から拾ってきた人間でも、三分教えればプロと同じ仕事ができませんか?」
「な――」
ライナスが息を呑んだ。オルドのグラスが、カウンターの上でカタカタと微かに震える。
「一人の天才に頼るから、組織が回らなくなるんです。工程を細分化して、一人に一つの単純作業だけを完璧にやらせる。それを数珠繋ぎにする。そうすれば、文字を持たないスラムの連中であっても、全体として『一流の職人並みの製品』が、恐ろしいスピードで組み上がっていく。彼らは労働者じゃない。ただの、システムの『歯車』です。代わりはいくらでもいる。だからこそ、誰でもいいんです」
「……おい、マスター」
オルドの目が、獲物を狙う老いた獣のように光った。
「理屈はわかる。だが、文字の読めぬ奴らに、その細分化した作業の指示をどうやって伝える。口頭で言っても、あやつらは三歩歩けば忘れるぞ」
「文字が読めないなら、絵を描けばいいんです」
坂本は、裏紙の端に、簡素な人間のマークや、矢印を描き足した。
「日本じゃ『ピクトグラム』とか呼ばれていました。直感的に、何をどこに差し込めばいいかが、形と色だけでわかる図記号です。これを作業台に貼っておく。言葉なんていりません」
静まり返った蔵の中で、ライナスは裏紙に描かれた不恰好な図を、食い入るように見つめていた。
「工程の細分化……絵のマニュアル……」
ライナスは、背筋にぞっとするような冷たいものが走るのを感じていた。スラムの人間を「可哀想な弱者」として保護するのではない。「危険なゴミ」として排除するのでもない。ただ、何も考えずに動くだけで金が稼げる、合理的な機械のパーツとして社会に組み込む。それこそが、彼らから剥ぎ取られていた『人間としての尊厳』を取り戻す唯一の手段なのだと、この冴えない店主は、さもつまらなそうに語っている。
「これなら……動く。今すぐにでも」
ライナスは、残ったレモンサワーを喉の奥に叩き込んだ。炭酸の刺激が、彼の網膜を無理やりこじ開けるように冴え渡らせる。彼はトマトの最後の破片を口に放り込むと、椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。
「マスター、代金はここへ置いていく!アレンを叩き起こし、ピアとガラムを招集する。この『王立工房』の計画、今夜中に書類を仕上げて、明日の一番でハンコを押す!」
「おい小僧、ワシを置いていくな。転移魔法なら一瞬じゃ。……マスター、チップスはツケにしておけ!」
オルドがライナスの肩を掴む。若き王の顔には、もう迷いはなかった。冷徹な、国家という巨大な装置を動かす「経営者」の顔だった。
「マスター、また来る!」
「徹夜は、翌日の歩留まりを下げますよ」
坂本の冷めた声を置き去りにして、大魔導士の淡い光が二人を包み、次の瞬間、蔵の空気だけが取り残された。静かになった空間で、坂本は残された汚れたグラスを片付けながら、ぽつりと言った。
「……ま、徹夜明けの現場が、一番ポカをやるんですけどね。そろそろ、あっちの準備もしておくか」
坂本は小さく首の骨を鳴らし、次の夜に向けて、母屋の台所で静かにタマネギを刻み始めるのだった。




