第13話:シニアアドバイザーの鉄槌
「ガハハハハ!サカモト、今夜もあの喉を爆撃する『かんびーる』と、極上の肉を用意せよ!」
深夜二時。限界集落の静寂を震わせる地響きのような笑い声と共に、蔵の黒い扉が勢いよく開いた。入ってきたバルドス公爵は、一週間前の哀愁など微塵も感じさせない、現役バリバリの猛将の覇気を取り戻していた。そのぎらついた双眸は、若者を背後から守る「真の長老」としての絶対的な余裕に満ちている。
カウンターの奥で、坂本はふっと穏やかな笑みを浮かべ、日本のガスコンロに火をつけた。
「お待ちしておりました、閣下。今夜はこれです」
坂本が提示したのは、冷凍庫でカチカチに凍らせたジョッキに注がれたキンキンのビール。それと今夜のメニュー、鶏肉を軟骨ごと細かく叩き、秘伝のタレを絡めてじっくりと焼き上げた『特製つくね(卵黄添え)』だ。小皿には、現代日本のスーパーで買ってきた、濃厚なオレンジ色の生卵の黄身が美しく鎮座している。
「ぬおおおおおっ!?」
バルドスは差し出された小皿、そしてその上でぷっくりと盛り上がる濃厚なオレンジ色の生卵の黄身を凝視したまま、彫刻のように凝固した。先ほどまでの豪快な覇気が、一瞬にして別の緊迫感へと変貌する。
「サ、サカモト……。貴様、私に何をさせようというのだ」
バルドスの声が、今度は地響きではなく、低く、地を這うような警戒の色を帯びて震えていた。そのぎらついた双眸が、鋭く坂本を射抜く。
「……何、とは?つくねにその卵黄をたっぷりと絡めて召し上がっていただこうかと」
「馬鹿な!」
バルドスはたまらずカウンターを叩いた。ドォン、と蔵全体が微かに揺れる。
「生だぞ!?獣の卵の『生』ではないか!貴様、私を暗殺する気か!?」
「暗殺、ですか」
坂本は困ったように眉を下げたが、バルドスは本気だった。冷や汗がその額から一筋、顎へと流れ落ちる。バルドスにとって、生卵とは「戦場での最悪の毒」に等しいものだったからだ。
「いいか、サカモト。我が王国において、熱を通さぬ卵を口にするなど自殺行為だ。あれは殻の表面から中身に至るまで、目に見えぬ悪魔の病魔が潜む巣窟!兵が一人それを口にすれば、たちまち激しい腹痛と高熱にのたうち回り、翌日には脱水で干からびて物言わぬ骸と化す。それが『生の卵』だ!どれほど強靭な肉体を持つ猛将であっても、あの悪魔の病魔には勝てん。それを……それを、この私に生で喰えと言うのか!?」
バルドスは、数々の死線をくぐり抜けてきた大剣を握る手さえも微かに震わせながら、まるで未知の魔獣を見るかのような目でオレンジ色の黄身を見つめていた。本能的な恐怖が、彼の屈強な身体を支配している。
「なるほど、閣下の世界では卵の生食は死に至る病を招くのですね」
坂本は納得したように深く頷くと、安心させるように優しく微笑んだ。
「ご安心ください、閣下。ここは日本です。この卵は、鶏の飼育環境から卵の洗浄、殺菌、出荷に至るまで、徹底された世界最高峰の衛生管理を経てここに届いています。生で食べても『絶対に安全』だと、国が保証しているものなんですよ」
「な……国が、保証だと……?」
バルドスは絶句した。国家が総力を挙げて、あの恐るべき「卵の病魔」を封じ込め、一般の市場に流通させているというのか。この国はどれほど豊かで、どれほど恐ろしい技術を持っているのだ。
「騙されたと思って、一口だけ。私の命を賭けてもいいですよ」
坂本にそう静かに促され、バルドスはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……そこまで言うなら、サカモト。貴様の言葉を信じよう。もし私が倒れたら、我が軍勢がこの蔵を平らにならすと思え!」
意を決し、震える手でつくねを持ち上げるバルドス。黄金色に輝くつくねを、恐る恐る、しかし意を決してオレンジ色の卵黄へと潜らせた。そして、覚悟を決めて豪快に口へと放り込む――。
じゅわぁ……コリッ、トロォ……。
「ぬおおおおおっ!?なんだこの食感は……!柔らかき肉の中から、小気味よい骨の砕ける破片が弾け、それをこの濃厚極まる卵の黄身が、全てを優しく包み込んでいく……!この濃厚な旨味の後に流し込むビール……くぅぅぅぅぅ、たまらんっ!!」
ジョッキを瞬く間に空にしたバルドスは、赤ら顔でふんぞり返ると、嬉しそうに王宮での大立ち回りを報告し始めた。
「サカモトよ、聞いてくれ。今日、王宮の謁見の間で、別派閥の保守派の首領たるチェスター伯爵のジジイが、大勢の貴族の前でアレンを糾弾しておったのだ。チェスターの奴、古い宮廷語の長文ポエムで書いた領地救済の申請書をアレンにルール通り却下され、『若造が生意気な!我が家名に対する不敬である!』と、寄ってたかってアレンを孤立させておってな」
「なるほど。日本の組織でもよくある『前例主義の老害による、若手ホープへの吊し上げ』ですね」
坂本は淡々と相槌を打ちながら、次のつくねを焼く。
「そう、まさにそれだ!アレンの奴、顔を真っ白にして『規格外の書類は受理できません』と震えながら正論を繰り返すばかりで、完全に押し切られそうになっていた。……だから、ワシがその真ん中に乱入してやったのだ!」
バルドスは楽しそうに拳を握り、机を叩いた。
「ワシはチェスターの胸ぐらを掴み、全員の前でこう言い放ってやった。『おいジジイ。我がエルディア王国の最高シニアアドバイザー(相談役)たるワシの知見から言わせてもらえば、お前のその長文ポエム書類は、実務を滞らせるただの職務怠慢のゴミだ!』とな!」
「ガハハ!言うたなバルドス!」
部屋の隅の座布団で、ちゃっかりしるこサンドをキープしていたオルドが拍手喝采する。
「チェスターは泡を吹いて怒り狂ったが、ワシはさらに畳み掛けた。『現場の深刻な事情があるなら、アレンを脅さず、ワシのところに直接言いに来い!ワシが精査し、本当に必要な予算であれば、財務部のルールを超えた例外規定として、ワシの責任の元で承認してやる!』となぁ!」
バルドスは誇らしげに胸を張った。例外規定という免罪符。ルールの外側にある本物の危機を、自らの権力と責任で担保する。その圧倒的なベテランの度量に、チェスター伯爵の派閥は完全に気圧され、ぐうの音も出なくなったという。結果、チェスターは即日、大人しく『様式第一号』の枠の中に文字を収めて書類を再提出し、アレンからは涙を流さんばかりに深く感謝されたのだ。
「さらにだ、サカモト!先日、レオノーラの前線が、想定を超える魔獣の変異種の猛攻で三交代制のシフトが崩壊しかけた。交代用の騎士たちの睡眠時間が足りず、現場が混乱しかけておったのだ」
バルドスはビールをぐいと飲み干し、不敵に笑う。
「だからワシがOJT指導員として、ワシの百戦錬磨の私兵団を率いて、その現場へ乱入してやった!呆然とする若造どもに『お前らはシフト通り寝ろ!ここから先は、マニュアルの通用せん不測の事態だ。ワシらの経験と勘で、残党を全てひねり潰してやる!』と命令し、あっという間に戦場を更地にしてやったわ!レオノーラからも『真の英雄の戦術を見ました』と、最敬礼を受けたぞ!」
バルドスは、心底愉快そうにジョッキを掲げた。
「若造どもの作ったルールを、上から大きな器で包み込み、困った時にだけ救い上げる……。サカモトよ、これぞ真の年長者、組織の重鎮にしか味わえん最高の愉悦だな!」
かつては仕組みの変化に置いていかれかけていた頑固な猛将は、現代日本のマネジメント思想を吸収した結果、組織の誰もが頼りにする理想の最強上司へと完全な進化を遂げたのだった。
「新旧の仕組みが完璧に噛み合ったのう」
オルドが温かいコーヒーをすすりながら、満足げに深く考察する。
「アレンが予算を統制し、レオノーラが前線を守り、ピアがインフラを爆速で整え、バルドスがその不備を上から救う。……もはや、エルディア王国の改革を阻むブラックな悪弊は、何一つ存在せぬな」
「ええ。これで一安心ですね」
坂本もまた、一つの炎上プロジェクトを完璧に鎮火させたような心地よい安堵感を覚え、コーヒーを口に含んだ。
――だが。ぬるい夜風が、蔵の隙間から入り込んでカビの匂いをかき混ぜる。完璧にホワイト化されたはずの王宮。その美しすぎる仕組みの強烈な縛りは、今度はいわゆる「現場の職人」たちに、最も激しいしわ寄せとなって襲いかかろうとしていた。
「おい、次の工程まであと三分だぞ!急げ!」
「シフトの休憩時間だ、強制的に寝ろ!武器を置け!」
「ガントチャートの線から遅れるな、不備が出る!」
効率とデータという名の見えない鎖に縛られ、職人たちの粋な文化であった「昼間から大好きな酒を引っ掛け、談笑しながらのんびり仕事をする」という、かつての緩やかな楽しみすら、合法的に剥奪されていく。坂本は空になったジョッキを水洗いしながら、遠くで響く単調な波の音に耳を澄ませた。現場の職人たちの、言葉にならない、しかし確実に限界を迎えつつあるドロドロとした不満のマグマが、この世界の水面下で、静かに、しかし確実に溜まり始めているのを感じながら。




