第12話:武闘派大貴族、赤提灯の灯火に救われる
深夜二時。日本海から吹き付ける湿った塩風が、古い木造の隙間をがたがたと鳴らしていた。蔵の最奥、黒い木製の扉が、いつもとは違う嫌に重い音を立てて開く。引きずられるようにして入ってきたのは、かつてアレンの首をへし折らんばかりの威光を放っていた猛将――バルドス公爵だった。
だが、その肩は目に見えて丸まり、豪奢な外套は泥を被ったように色褪せて見える。かつて画面の向こう、デジタル化だの業務効率化だのに追い詰められて席を失った、あの昭和の窓際サラリーマンの背中が嫌でも重なった。
「……ここが、オルドの言っていた穴ぐらか」
バルドスは畳の感触を確かめるように不器用な足取りで進み、居心地悪そうに周囲を睨む。坂本はいつも通りの手つきでグラスを拭きながら、冷めた声で椅子を示した。
「いらっしゃいませ。……ひどい顔ですね。そこにどうぞ。パイプ椅子ですけど」
「ふん……。若造どもが『効率』だの『エビデンス』だのと騒ぎ立てる王宮に、ワシの席はなくなった。……おい、何か喉を潤すものをくれ。胸の奥の焼け付くような苛立ちを消せる、強いやつだ」
巨体を椅子に沈め、バルドスは吐き捨てるように言った。ワインでもなければ、ただ度数の高いスピリッツでもない。男が一人で夜の街の赤提灯へ逃げ込むとき、求めるのはもっと暴力的な喉越しだ。
坂本は無言で母屋の冷凍庫へ向かい、カチカチに凍らせた分厚いジョッキを取り出した。そこへ、日本の大手メーカーの冷えた缶ビールを、泡の層が三割になるよう勢いよく注ぎ込む。同時に、ガスコンロの網の上で、仕込んでおいた鶏肉とネギの串を炙る。じゅわじゅわと脂が爆ぜ、醤油とみりん、砂糖が焦げるあの特有の香ばしいタレの臭いが、蔵のカビ臭い空気を一瞬で塗り替えた。
「……っ?なんだ、この匂いは……。肉の脂と、焦げた甘みが、鼻腔を容赦なく叩きにくる……!」
「ビールと、ねぎまです」
黄金色の液体がなみなみと注がれ、結露で濡れたジョッキと、タレで怪しく輝く焼き鳥をバルドスの前に置いた。
バルドスは不審がりながらも、冷気で曇ったガラスを大きな手で掴む。未知の冷たさに一瞬眉をひそめたが、そのまま口へ流し込んだ。
「――ッ!?!?ぐ、はっ……ふぅぅぅぅぅ!!」
大貴族の喉が、歓喜の咆哮をあげるように大きく鳴った。この世界の酒は発酵が甘く、生温くてベタつくものばかりだ。だが、これは違う。喉を極限の冷気で殴りつけたかと思えば、直後に炭酸の無数の細かな爆撃が喉を襲い、胸のつかえを文字通り全て洗い流していった。
「な、何だこの爽快感は……!喉が、腹が、歓喜の雄叫びを上げているぞ!炭酸の衝撃の後に残る、この心地よい麦の苦味……ッ!」
「熱いうちに、肉もどうぞ」
促されるまま、バルドスはねぎまを一本掴み、横から豪快に歯で噛みちぎった。サクッ、じゅわぁ……。
「う、美味い……ッ!噛んだ瞬間に溢れる鶏の脂の旨味と、この甘辛い極上のタレ……。そして何だ、この白い野菜のシャキシャキとした食感と、奥にある微かな苦味は……!この苦味とタレの甘みが、肉の脂を極上の芸術へと昇華させている……!」
そこからは、嵐のようだった。ねぎまを喰らい、ビールを流し込み、またねぎまを貪り食う。一杯、二杯、三杯。日本の居酒屋の洗礼を浴びたバルドスは、あっという間に顔を真っ赤にし、やがてジョッキをドスンと机に置くと、その大きな目から、ボロリと大粒の涙をこぼした。
「サカモトよ……。ワシらは、間違っていたのか……?」
公爵は、赤ら顔で子供のように机に突っ伏した。
「ワシは、四十年間、この国を戦場で守ってきた。どこに伏兵がいるか、どの季節に魔獣が動くか、全てワシの経験と勘が国を救ってきたのだ。……それなのに、あのアレンの若造は……『様式第一号』などという薄っぺらい四角い枠を突きつけ、ワシの言葉を読みもせずゴミ箱へ捨ておった……!ワシらの歩んできた人生は、あの四角い枠の前では、一金貨の価値もないというのか……!」
それは、時代の変化に取り残された、ベテランの切実な叫びだった。
坂本は静かにビールの缶を片付け、代わりに温かいウーロン茶を彼の前に置いた。そして、元中間管理職としての、深く、泥臭い眼差しで公爵を見つめた。
「閣下。アレンさんやレオノーラさんは、閣下をバカにしていませんよ。彼らは、国という肥大化したシステムを維持するのに、ただ必死なだけです。感情を入れずに回さないと、彼ら自身が死んでしまうから」
「……しかし、ワシの経験は……」
「ええ。だからこそ、ここからが閣下の本当の出番なんです」
坂本はウーロン茶の湯気越しに、静かに微笑んだ。
「システムというのは万能ではありません。ルールが綺麗になればなるほど、そのルールからはみ出た予測不能な緊急事態が起きた時、システムは一瞬でフリーズします。……その時、マニュアルを完全に無視して、自分の判断で現場を救えるのは、誰ですか?」
バルドスは、ハッと顔を上げた。
「それは……百戦錬磨の、ワシの圧倒的な現場の経験だけだ……」
「その通りです。だから閣下、あの若造どものルールの下で戦うのはやめてください。ルールの上に立つんです。現代日本でいう『シニアアドバイザー(相談役)』や『OJT(現場指導員)』という立ち位置です」
「しにあ……、おーじぇーてぃー……?」
「枠に収まらない無理難題が起きた時、それを例外規定として、閣下の責任と名前で処理してやる。前線のシフトが魔獣の猛攻で崩れかけた時、マニュアルを破って閣下の私兵を動かし、若手たちを後ろから守ってやる。……若者たちにルールという刀を持たせ、その刀が折れそうな時に、閣下の圧倒的な経験で包み込んで救い上げる。それが、真の長老の格好良さだと思いませんか?」
バルドスの赤ら顔が、今度は驚愕と、かつてない興奮でさらに紅潮した。四角い枠に押し込められるのではない。若者たちが作った精緻な仕組みを、自分の大きな器で丸ごと包み込み、守護するという役割。
「……ガハ、ガハハハハ!面白い……!面白いぞ、サカモト!相談役、現場指導員か!ルールの不備をワシの経験で救い上げる……これぞ真の強者の役割ではないか!」
バルドスは豪快に笑い飛ばすと立ち上がり、懐から拳大の純金塊を取り出してカウンターにドスンと置いた。
「これを受け取れ、サカモト!今夜のワシへの授業料だ!あと……その、ワシの喉を爆撃した、この『かんびーる』という鉄の筒、持って帰ってもよいか?記念に飾っておきたい!」
「ええ、空き缶で良ければ、どうぞ」
バルドス公爵は、日本のアルミ缶を宝物のようにお土産として大切に抱え、胸を張って、堂々たる猛将の足取りで黒い扉の向こうへと帰っていった。その背中には、窓際族の哀愁など微塵もなかった。若き仕組みの番人たちを背後から支え、いざという時に牙を剥く、王国の最強の相談役が今、ここに誕生したのだった。




