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後部座席の聖域

――プシューッ……。


ロケバスの重いドアが静かに閉まると、外の極寒《ごっかん》の世界が嘘《うそ》のように遮断《しゃだん》された。


大型のワンボックスバスの車内は、ガンガンに効いた暖房のせいで、むせ返るように熱く、そして息苦しかった。

アイドリングの低いエンジン音だけが、等間隔《とうかんかく》で車体を微《かす》かに揺らしている。


前方から2列目あたりの座席には、疲労困憊《ひろうこんぱい》のメイクさんやアシスタントディレクターなど、数人のスタッフが首枕をして深く眠りこけていた。

彼らの規則正しい寝息が、静まり返った車内に微かに響いている。


(……人、いるじゃない……! どうするの、見つかったら……っ)


私は心臓が口から飛び出しそうなほどのパニック状態に陥《おちい》っていた。

しかし、私の手首を掴《つか》んで前を歩くシュンは、足音ひとつ立てない滑らかな身のこなしで、バスの通路を1番奥へと進んでいく。


彼が向かったのは、最後尾《さいこうび》の5人掛けのロングシートだった。

運転席のルームミラーからも完全に死角になり、前の座席の背もたれが高いため、前方からは絶対に様子を窺《うかが》うことができない、完全な『ブラインドスポット』だ。


シュンは私を最後尾の座席の端に押し込むと、自分もその隣に腰を下ろした。


「ちょっ、俊介《しゅんすけ》……! ここで何するつもり……」


私が必死に声を殺して抗議《こうぎ》しようとした瞬間。


バサッ、と。


座席に置かれていた、大判《おおばん》の分厚いフリース毛布が、私たちの頭からすっぽりと被《かぶ》せられた。


「えっ……⁉」

「しーっ。声出したら、あいつら起きるよ」


毛布の下の、完全な暗闇《くらやみ》。

シュンが私の耳元に唇を寄せて、悪魔のように甘く低い声で囁《ささや》いた。


彼の吐息《といき》が耳の裏を撫《な》で、ビクッと肩が跳ねる。

暗闇の中で目が慣れてくると、至近距離《しきんきょり》にシュンの顔があった。外の冷気で冷え切った彼の頬《ほお》が、私の頬に触れるか触れないかの距離にある。


狭い毛布の中は、彼から放たれる体温と、あの少し汗ばんだオスのフェロモンで、一瞬にして満たされてしまった。


「……ねえ、春奈《はるな》」

「な、なに……早く出ようよ。こんなの、絶対におかしい……」

「俺、さっきのシーン何回も走ったから、すげー疲れた。ちょっと休ませて」


言うが早いか、シュンは毛布の中でゴソリと体勢を崩した。


そして。

ズシッ……と。私の太ももの上に、容赦《ようしゃ》のない重みが乗せられた。


「あっ……⁉」


声が出そうになるのを、両手で必死に口を塞《ふさ》いで耐える。

シュンはロングシートに横たわり、私の膝《ひざ》を枕にして、ごろんと仰向《あおむ》けに寝転がったのだ。


ダウンコートを脱いでタイトスカート1枚になっている私の太ももに、彼の後頭部の硬《かた》い感触と、首筋の熱がダイレクトに伝わってくる。


「……っ、ど、退《ど》いてよ……! 重い……それに、こんな体勢……」

「やだ。春奈の膝、柔らかくて気持ちいい。……それに、ここなら誰にも見えないでしょ」


シュンは私の太ももに顔をすり寄せるようにして、深く息を吸い込んだ。

長くてサラサラした金髪が、私の素肌《すはだ》をストッキング越《ご》しにくすぐる。


ただでさえ暖房が効いていて暑いのに、毛布の中は彼と私の体温が混ざり合い、サウナのように湿度を増していく。

息をするたびに、彼の匂いを肺の奥まで吸い込んでしまう。


(だめ、逃げなきゃ。立って、彼を突き飛ばして……)


頭ではわかっているのに、身体がまったく動かない。


もしここで私が暴れて音を立てれば、前で寝ているスタッフが目を覚ましてしまう。

「シュン君とマネージャーが、毛布を被って後ろの席で何をやっているんだ」と、取り返しのつかない大騒ぎになるのは目に見えている。


私には、『声を上げる』という最大の防御《ぼうぎょ》手段を奪われてしまっているのだ。


「……はるな」

「……なに……」

「さっきの男。なんであいつに笑いかけてたの」


下から見上げてくるシュンの瞳《ひとみ》が、暗闇の中で微《かす》かに光を帯びていた。

ただ膝枕をしているだけ。それなのに、彼の視線には、私を骨の髄《ずい》まで絡《から》め取るような、ねっとりとした執着《しゅうちゃく》がこびりついている。


「……だから、ただの仕事の挨拶《あいさつ》だって言ってるでしょ。飲み物を作ってくれたから、お礼を言ってただけで……」

「それだけで、あんな隙《すき》だらけの顔するんだ。……俺には、いっつも怒ってばっかなのに」


拗《すね》ねたような、子供のような響き。

けれど、私の太ももに押し付けられている彼の熱は、どうしようもなく『大人の男』のものだった。


私は彼と目を合わせることができず、ギュッと目を逸《そ》らして、自分の膝の上で強く手を握りしめた。


「……当たり前でしょ。私はあんたのマネージャーで……幼馴染《おさななじみ》のお姉ちゃんなんだから。あんたがちゃんとしてくれないと、困るの」

「まだそんなこと言ってんの」


シュンが、フッと自嘲気味《じちょうぎみ》に笑う。


「……俺はもう、春奈のこと、そんな風に見たこと1回もないけど」

「っ……」

「春奈の作ったご飯が食べたいのも、春奈の匂い嗅《か》ぐと落ち着くのも。……全部、春奈のことが『女』として好きだからに決まってんじゃん」


ドクン、と。

心臓が、痛いほど大きく跳ねた。


ストレートすぎる言葉。

今まで私が、必死に見ないふりをして、理性の蓋《ふた》で押さえつけてきた『事実』を、彼は毛布という暗闇の密室《みっしつ》で、容赦《ようしゃ》なく突きつけてきた。


「……っ、バカなこと言わないで。あんたはトップアイドルで、私は……」

「アイドルとか関係ない。俺はただの男で、春奈はただの女。……それ以外に、何があるの?」


シュンが、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

彼の大きく、熱い掌《てのひら》が、私の震える両手を包み込んだ。


「……春奈。俺のこと、見て」


抗《あらが》いがたい引力を持った低い声。

私はゆっくりと視線を下ろし、彼の瞳を見つめ返した。


そこにあるのは、ワガママな弟分の顔じゃない。

何年もの間、ずっと私への想いを隠し、拗《こじ》らせ、そしてついに理性のタガを外してしまった、1人の狂おしいほど切実な『オス』の顔だった。


「……しゅんす、け……」


無意識のうちに、私の口からその名前がこぼれ落ちていた。


彼の瞳に見つめられていると、身体の芯《しん》からじわじわと熱が湧き上がり、指先が微《かす》かに痺《しび》れてくる。

私は、彼が愛おしくてたまらなくなってしまった。


どんなに彼が強引で、理不尽《りふじん》で、私を困らせても。

昔からずっと見守ってきた彼が、こんなにも強く、私だけを求めてくれているという事実が、私の強固な理性の壁を、音を立てて崩《くず》していく。


(……少しだけなら。……誰にも見られない、この毛布の中だけなら)


私は何かに操《あやつ》られるように、包み込まれていた手をゆっくりと引き抜き、彼の後頭部へと伸ばした。

サラサラの金髪に指を絡《から》め、昔、彼が泣いていた時にそうしてあげたように、優しく、ゆっくりと撫《な》でる。


「……んっ……」


シュンが、気持ちよさそうに目を細め、喉《のど》の奥で微《かす》かに甘い音を鳴らした。

その反応が嬉しくて、私はもう片方の手も彼の髪に添え、まるで手懐《てなず》けるように撫で続けた。


少しでも気を抜けば、すべてを彼に明け渡してしまいそうになる自分を、必死で繋《つな》ぎ止めながら。


しかし。

私が油断し、彼に完全に心を許した、その一瞬の隙《すき》を。


年下の狡猾《こうかつ》なオオカミは、決して見逃さなかった。


「……っえ?」


私の髪を撫でる手が、ピタリと止まる。


毛布の下。

完全に死角になっている、私の膝下《ひざした》。


そこから、シュンの冷たい指先が、タイトスカートの裾《すそ》をゆっくりと捲《めく》り上げ、ストッキングに覆《おお》われたふくらはぎから、太ももの裏側へと、滑り込んできたのだ。


「しゅっ……⁉ な、なに……っ!」


私は声にならない悲鳴を上げ、ビクッと身体を震わせた。


「……春奈、無防備《むぼうび》すぎ」


膝枕をしたまま、シュンが下から私を見上げる。

その瞳には、先ほどまでの切実な光は消え失せ、獲物を完全に罠《わな》にはめた捕食者の、ギラギラとした暗い欲情《よくじょう》が宿っていた。


「……っ、やだ、だめっ、手……退かして……っ!」

「声、大きいよ。前の奴ら、起きちゃうかも」


シュンは悪びれもせずそう言うと、私の抗議《こうぎ》を完全に無視して、さらに深く、指先を侵入《しんにゅう》させてくる。

ストッキングの薄い布地《ぬのじ》越しに伝わってくる、彼の長い指の感触。


それは確実に、絶対に入ってはいけない『禁断の領域』へと、ジリジリと距離を詰めていた。

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