新たな火種
午前3時。
深夜の山奥でのロケは、想像を絶する過酷さだった。
気温はついに氷点下を下回り、吐く息だけでなく、まつ毛の先まで凍りつきそうなほどの冷気が現場を支配している。
次のシーンは、山肌に大掛かりなクレーンカメラを設置しての俯瞰撮影になるため、スタッフたちによる大掛かりなセッティング作業が始まり、役者陣には30分ほどの長めの休憩が告げられた。
「……ううっ、さむっ……」
私は分厚いダウンコートの襟元をギュッと合わせ、足踏みをして少しでも体温を保とうとしていた。
シュンは専用の控えテントに戻り、メイク直しとストーブでの暖を取っているはずだ。
私は彼に呼ばれたらすぐに動けるよう、テントの外で待機していた。
「安藤さん、お疲れ様です。すっごい寒そうですね」
ふいに、横から明るい声がかけられた。
見ると、今回の映画の制作進行を担当している若手スタッフの鈴木くんが、湯気を立てている紙コップを2つ持って立っていた。
年齢は私と同じ20代半ば。いつも現場を元気に走り回っている、気の良い青年だ。
「あ、鈴木さん。お疲れ様です。本当に冷え込みますね……山の夜を甘く見てました」
「ですよね。ほら、これ。あっちのケータリングでココアを作ってみたんです。良かったらどうぞ」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます……! あ、チョコシロップも乗ってる!」
私が両手で紙コップを受け取ると、ジンジンと冷え切っていた指先に、じんわりと温かい熱が伝わってきた。
フーフーと息を吹きかけて1口飲むと、チョコの甘さと温かさが、ガチガチに強張っていた胃の腑を優しく解きほぐしてくれる。
「安藤さん、いつもシュン君につきっきりで大変ですよね。あの若さでトップアイドルだし、色々気を使うことも多いんじゃないですか?」
「いえ、そんなこと……。でも、確かに体力勝負なところはありますね」
「安藤さんって、すごく話しやすいですよね。年齢も同じくらいだし。……あの、もし良かったら今度、現場が落ち着いた時にでも――」
鈴木くんが少しだけ照れたように頬を掻き、私との距離を半歩縮めてきた。
その時だ。
「あっ、やば。安藤さん、唇の端っこ、少しチョコついてますよ」
「えっ? 本当ですか? 恥ずかしい……」
「あはは、貸してください、俺拭きます――」
鈴木くんが苦笑しながら、ポケットからハンカチを取り出し、私に手を伸ばそうとした。
――ドンッ‼
「きゃっ⁉」
突然。
私の背中に、ものすごい重量と熱を持った『何か』が、上から覆い被さってきた。
あまりの衝撃にココアをこぼしそうになるのを必死で耐える。
背中から首筋にかけて、大きな腕がガッチリと巻き付き、私の身体は巨大な万力に挟まれたように完全にホールドされた。
「……あー、さむ。マジで凍え死ぬ」
耳元で、けだるげな声が響く。
振り返らなくてもわかる。
私を背後から抱きすくめているこの声も、漂ってくる匂いも、圧倒的な質量の正体も。
「しゅ、シュン……っ⁉ ちょっと、何してるの! 控えテントで休んでなさいって言ったでしょ⁉」
「だって、テントのストーブより春奈の方が温かいんだもん。……春奈、俺の専属ヒーターでしょ? しっかり暖めてよ」
シュンはそう言って、私の肩に大きな顎を乗せ、首筋にスリスリと金髪を擦り付けてきた。
周囲にスタッフがいるというのに、まるで大型犬が飼い主に甘えるような、無防備でベタベタとしたスキンシップ。
けれど、私を抱きしめる彼の腕の力は、じゃれ合いの域を完全に超えていた。
逃がさない。他の誰にも、指1本触れさせない。
そんな強烈な『マーキング』の意志が、分厚いダウンコート越しでもハッキリと伝わってくる。
「……あ、シュン君。お疲れ様。すごい仲良いんだね、2人とも」
突然の乱入者に、鈴木くんが一瞬ギョッとした顔をした後、愛想笑いを浮かべた。
シュンは私の肩に顎を乗せたまま、首だけを僅かに動かして、鈴木くんを流し見た。
「ええ、まあ。俺たち、昔からずっと一緒なんで」
「へえ、そうなんだ。幼馴染ってやつ?」
「はい。だから、こいつの世話は俺が1番よくわかってるんです。……アンタが気安くハンカチとか出さなくても、俺が舐めとってやるんで」
「え……?」
シュンの口から飛び出した常軌を逸した言葉に、私と鈴木くんの動きが同時にピタリと止まる。
「なっ……しゅ、俊介⁉ 何バカなこと言って……っ!」
「ん? 冗談に決まってんじゃん。あははっ」
私が慌てて声を上げると、シュンは悪びれもせずにケラケラと笑った。
しかし、私を背後から抱きしめたまま鈴木くんを見据えるその瞳は、まったく笑っていなかった。
薄暗いロケの照明の下。シュンの切れ長の目には、同年代のオスに対する、容赦のない見下しと、ドス黒い敵意がギラギラと渦巻いていた。
(……やばい。この目、昨日の楽屋で桐生さんを睨みつけていた時と、同じ……っ!)
その異様な空気を察知したのか、鈴木くんは「あ、あはは……じゃ、じゃあ俺、向こうの準備あるんで!」と引きつった笑いを残し、逃げるようにその場を走り去っていった。
彼が見えなくなった瞬間。
シュンの腕の力が、ギリッ、とさらに1段階強くなった。
「痛っ……! ちょっと、俊介、離して! スタッフに見られたらどうす――」
「なんであんな奴と笑い合ってんの」
耳元で囁かれた声は、先ほどまでの甘えたトーンから一転、氷点下の冷気よりも冷たく、重いものだった。
「なんでって、鈴木くんが温かいココアを淹れてくれたから……」
「ふーん。同い年くらいの男なら、誰でもいいんだ。桐生みたいなおっさんの次は、ああいう無難そうな同世代の男が、春奈の好み?」
「なに言ってるの! ただの仕事のコミュニケーションでしょ⁉」
私が必死に抗議しても、シュンは聞く耳を持たない。
彼は私を後ろから抱きしめた体勢のまま、私の手に握られていた紙コップを乱暴に奪い取った。
「あっ……!」
チャプッ、と。
シュンは残っていたココアを、近くの枯れ草の上に躊躇いもなく捨てた。
「なにす……!」
「あんな奴の淹れたもん、飲むな。……俺以外の男に甘やかされて、ちょっと嬉しそうな顔してんの、マジでムカつく」
シュンの言葉には、子供のような理不尽なワガママと、大人の男としての重すぎる執着が、どろどろに混ざり合っていた。
大先輩である桐生さんに向けた嫉妬とは違う。
自分と年齢の近い、私と『対等』に話ができる同年代の男への、生々《なまなま》しい苛立ち。
「……っ、いい加減にして! ここは仕事場なの! さっきみたいな悪ふざけ、スタッフに誤解されたらどうするつもり⁉ あんたは国民的アイドルなんだから、もっと周りの目を気にして……っ!」
私は焦りと恐怖から、マネージャーとしての正論を武器にして彼を突き放そうとした。
けれど、その言葉は完全に逆効果だった。
「……周りの目」
「そうよ! ここで目立つようなこと、絶対しないで!」
私の言葉を聞いた瞬間。
シュンの喉の奥から、クツ、と低く笑う声が漏れた。
「……そっか。周りの目があるから、ダメなんだ」
「え……?」
「じゃあ。……誰にも見られなくて、目立たない場所なら、俺が何しても文句言えないよね」
――ゾクリ。
背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
シュンは私のダウンコートの袖口から強引に手首を掴み出すと、ギリッと骨が軋むほどの力で握りしめた。
「ちょっ、俊介……痛いっ、どこ行くの……!」
「ロケバス。……向こうで次のセッティングが終わるまで、あと20分はある。たっぷり暖めてやるよ、春奈」
抗う間もなかった。
180センチを超える大男の力に引きずられ、私はスタッフの死角になる暗がりを縫うようにして、アイドリング音だけを響かせて停まっている大型のロケバスへと連れ込まれていく。
バスの前方には、数人のスタッフが疲労で眠りこけているのが見えた。
あそこに乗るというのか。人がいるのに。
「だめっ、やだ……っ! 誰か起きたら……!」
「声出したら1発でバレるよ。……それとも、こんな暗闇で俺と手繋いでるの、あいつらに見つかってみる?」
振り返った彼の瞳は、悪魔のように嗜虐的な光を帯びていた。
もう、退路はない。
私は彼に腕を引かれるまま、逃げ場のない『密室』へと、自ら足を踏み入れるしかなかった。




