極寒のロケ地
――ピーン、と張り詰めた深夜の冷気が、容赦なく肌を刺す。
吐く息は白く濁り、足元の枯れ葉や霜が踏まれるたびに、ザクッ、ザクッと乾いた音を立てていた。
時刻は午前2時。
ここは都心から車で数時間ほど離れた、県境の山奥にある映画のロケ地だ。
周囲には街灯1つなく、鬱蒼と生い茂る木々が黒い影となって迫ってくるような錯覚を覚える。
現場を照らしているのは、撮影用の巨大な照明機材と、ロケバスから漏れる微かな光だけだった。
「はい、オッケー! 今のテイク、すごく良かったよ! シュン君、その切羽詰まった表情、完璧!」
メガホンを持った監督の声が、静まり返った冬の森に響き渡る。
その瞬間、極度の緊張感に包まれていた現場の空気が、ふっと弛緩した。
スタッフたちが一斉に動き出し、次のカットへの転換作業が慌ただしく始まる。
「ありがとうございます。次もよろしくお願いします」
照明の中心に立つシュンは、深々と頭を下げ、スタッフたちに向けていつもの爽やかな笑顔を向けた。
今日の彼は、アイドルとしてのキラキラした衣装ではなく、映画の役柄である『心に傷を抱えた孤独な青年』を演じるための、少し薄汚れたモッズコートに身を包んでいる。
そのボロボロの衣装すらも彼の圧倒的な美貌を隠すことはできず、むしろアンニュイな色気を増幅させていた。
カメラが回っている時の彼の集中力と、憑依したような演技は、身内である私から見ても背筋がゾクゾクするほど凄まじい。
(……すごいな。やっぱり、俊介は天才なのかもしれない)
私は分厚いダウンコートのポケットに両手を突っ込み、ホッカイロをギュッと握りしめながら、少し離れた場所から彼を見つめていた。
プロの俳優としての、非の打ち所のない完璧な姿。
それなのに。私の頭の奥には、彼がカメラの前で見せている顔とはまったく違う、もう1つの『顔』が、べっとりとこびりついて離れなかった。
『なんで? あのおっさんには大人しく触られてたくせに』
『上書きしてやる。俺以外の男の匂いなんて、全部消してやるから』
――ビクンッ、と。
昨日の密室の楽屋での記憶がフラッシュバックし、私の身体は寒さとはまったく別の理由で、大きく震えた。
逃げ場のないソファの上。
私を上から組み敷き、一切の光を宿さない暗い瞳で見下ろしてきた、あの獰猛なオスの顔。
強引にこじ開けられた唇の感触。口腔内を隅々《すみずみ》まで蹂躙された、熱くて暴力的な舌の動き。
そして――私の首筋に犬歯を立て、何度も何度も執拗に吸い上げてきた、あの熱。
(だめ、思い出しちゃだめ……! 今は仕事中、仕事中なんだから……!)
私はギュッと目を閉じ、フルフルと首を横に振って、頭の中に蘇る甘く危険なノイズを必死に追い出そうとした。
今日の早朝。ロケに出発するため、午前4時に洗面所の鏡の前に立った時のことを思い出す。
私の白い首筋には、彼が刻み込んだ赤紫色のキスマークが、毒花のように毒々《どくどく》しく咲き誇っていた。
『見せつければいいじゃん。春奈が誰のモノか、全員にわからせてやる』
彼のその言葉を思い出すたびに、指先が震えた。
私は1番カバー力の高いコンシーラーを指に取り、その痕跡を塗り潰すように、何度も何度も重ね塗りをした。
まるで、自分が犯してしまった罪の証拠を隠滅するかのように。
肌色のクリームの下には、確かに彼がつけた『マーキング』が存在している。
その事実を自分だけが知っているということが、ひどく恐ろしく、同時に、下腹部の奥がキュンと疼くような背徳感を煽っていた。
「……春奈」
不意に。
耳元で、甘く低い声が響いた。
「ひゃっ⁉」
肩をビクッと跳ねさせて振り返ると、いつの間にかカメラ前から移動してきたシュンが、私のすぐ隣に立っていた。
スタッフたちが忙しく動き回る喧騒の中。
彼は周囲の目を誤魔化すように、自分の台本で口元を隠しながら、私を見下ろしていた。
「しゅ、シュンさん……お疲れ様。すごく良い演技だったよ。はい、温かいお茶」
私は動揺を隠すために、わざとらしく明るいマネージャーの声を出し、保温ボトルを差し出した。
しかし、シュンはそれを受け取ろうとはしなかった。
彼は台本の影で、私を射抜くような鋭い視線を向けている。
その瞳には、さっきまで演じていた『孤独な青年』の影など微塵もない。私だけを狙い澄ました、肉食獣の目だった。
「……今日、コンシーラー厚塗りしすぎ。不自然」
「えっ……⁉」
彼がボソリと呟いた言葉に、私の顔から一気に血の気が引いた。
「そ、そんなことないでしょ……ちゃんと自然に馴染ませて……」
「俺にはわかる。だって、俺がつけた場所だもん」
シュンが、意地悪く口角を上げる。
そして、彼はゆっくりと右手を持ち上げた。
「あ、ちょっと安藤さん、髪に落ち葉ついてるよ」
彼は周囲のスタッフに聞こえるような声でそう言いながら、私の横の髪にスッと指先を伸ばしてきた。
私は逃げることもできず、ただ息を呑んで硬直する。
彼の手が、私の髪に触れる。
しかし、それは落ち葉を取るためなどではなかった。
――ゾワリ。
彼の冷たい指先が、私の髪をかき分けるふりをして、コンシーラーで隠されたうなじの『痕』の部分を、ピンポイントで、ねっとりと撫で上げたのだ。
「あ……っ」
声にならない小さな吐息が漏れる。
指先が触れたのは、ほんの一瞬。たった1秒にも満たない、他人から見れば何気ないスキンシップにしか見えない動作。
それなのに、撫でられた部分から爆発的な熱が広がり、私の背筋を強烈な電流となって駆け抜けた。
昨日の、あの噛み付かれるようなキスの感触が、鮮明に肌の上に蘇る。
「……ほら、取れた」
シュンは何事もなかったかのように手を引っ込め、私に向かってにっこりと、完璧な『アイドル』の笑みを浮かべた。
けれど、その瞳の奥には、明らかに私の反応を楽しんでいるドス黒い嗜虐心が渦巻いていた。
「……っ、ありが、とう……」
私は震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。
膝がガクガクと震え、立っているのもやっとの状態だ。
たった指先1つで、こんなにも自分の身体が彼のフェロモンに支配されてしまっていることが、恐ろしかった。
「じゃ、俺ちょっと監督と話してくる」
シュンは私の手から保温ボトルをひょいっと奪い取ると、ヒラヒラと手を振って監督のもとへと歩いていく。
私はその後ろ姿を見つめながら、自分がとんでもない綱渡をしていることを実感していた。
ここは、何十人ものスタッフがいる仕事現場だ。
1歩間違えれば、2人の関係が周囲にバレてしまう。
それなのに彼は、その『スリル』すらも楽しむかのように、周囲の目を盗んでは、私にだけわかるサインで強烈なマーキングを仕掛けてくる。
(どうしよう……。私、このロケが終わるまで、理性を保っていられるの……?)
深夜の冷たい風が吹き抜ける中。
コンシーラーの下に隠されたキスマークだけが、彼が触れた熱を帯びたまま、ドクン、ドクンと私の脈拍に合わせて火照り続けていた。




