最後の防衛線と、甘い陥落
――チュッ……ジュゥゥッ……。
非常階段の薄暗い踊り場に、生々《なまなま》しく、ひどく艶っぽい水音が反響していた。
「ひぅっ……! あ、やだっ、俊介……そこ、だめぇっ……!」
「だめじゃない。……こんな背中見せて、他の男誘ってたアンタが悪いんだろ」
ジッパーを半分まで下ろされたパーティードレスは、もはや私の身体を隠す防壁としての役目を果たしていない。
肩からずり落ちそうになるネイビーの生地を両手で必死に押さえる私の背後に、シュンの大きな身体がぴったりと寄り添っている。
非常階段の凍えるような冷気に晒された私の背中を、シュンの少し荒れた指先と、熱い唇が、容赦なく這い回っていた。
肩甲骨の間のくぼみに落とされたキスが、次々と、背骨のラインをなぞり下りていく。
布1枚隔てない、直接的な肌と肌の接触。
アルコールで火照りきった私の身体に、彼の吐息と唇の熱がダイレクトに注ぎ込まれ、触れられるたびに脳髄が痺れるような強烈な快感が全身を駆け巡った。
「やっ……ああっ……! お願い、やめ……っ」
「……春奈。もう、言い訳は聞かない。アンタの全部、俺によこせ」
シュンは私の背中からゆっくりと顔を離すと、私の肩を掴んで、その大きな身体で私を包み込むようにして、くるりと正面に向き合わせた。
再び、私の背中が背後の冷たい壁へと優しく押し当てられる。
逃げようとする間もなかった。
シュンは両手を私の顔の横の壁につき、自らの身体で私の視界のすべてを塞ぎ込んだ。
彼が半歩踏み込んだことで、私たちの身体は、ドレスの薄い生地を挟んで完全に密着してしまった。
彼の硬い胸板の感触、そして、衣服越しに伝ってくる骨張った身体の輪郭。
圧倒的な体格差に包まれて、私は1ミリも身動きが取れなくなる。
「しゅん、すけ……っ」
「……やっと、俺のこと真っ直ぐ見た」
耳元で囁かれる、低く、掠れた声。
密着した身体の合わせ目から、彼の心臓が恐ろしいほどの早鐘を打っているのが、ドクン、ドクンと直接私の肌に響いてくる。
絶対に逃げられないという絶対的な力の差が、アルコールで溶けかかっている私のメスとしての本能を強烈に刺激し、足の先から力が抜け落ちていくような甘い痺れを生み出していた。
「……っ、あぁっ……!」
シュンの大きな手が壁から離れ、私の腰のくびれへと滑り込んだ。
そのまま、ドレスのタイトな生地ごと、私の腰をグッと自分の方へと引き寄せる。
――ゾワリ。
彼の手のひらの圧倒的な大きさと熱。
その手が、腰の滑らかな曲線をなぞりながら、じりじりと下へと滑り落ちていく。
半分開かれたドレスの隙間から、ストッキングの最上部のゴムが素肌に食い込む、腰からヒップへと繋がる最も無防備な起伏へと、彼の熱い指先が容赦なく深く沈み込んでいく。
タイトドレスの布地が悲鳴を上げるほど強く引き絞られ、衣服の下の肉の柔らかさが、彼の手のひらの中にすべて強制的に収められていくような、圧倒的なホールド。
「ひゃあっ⁉ だ、だめっ、そこ……さわらな、いで……っ」
「なんで。……春奈、ここ、すげー熱くなってんじゃん。俺の手、拒んでないよ」
シュンがひどく色気のある声で笑い、腰を強く抱く手のひらに、さらにじわじわと力を込めてきた。
彼の手の圧迫によって、下着のラインが肌に強く押し付けられ、形がはっきりと暴かれていくような生々しい感覚が伝わってくる。
布地が激しく擦れる微かな摩擦音と、お尻の肉をグッと掴み上げられるような強烈な独占欲だけで、下腹部の奥がきゅうぅっと熱く締め付けられていく。
「や、やぁっ……! んんっ、ああっ……!」
声を殺さなければならないのに、甘い喘ぎ声が止まらない。
冷たい壁と、正面から私を完全に支配している彼の異常なほどの熱さ。
その温度差に頭の芯までドロドロに溶かされ、私はいとも簡単に彼の与える快感に堕ちていく。
もう、マネージャーだとか、幼馴染だとか、そんな言葉を思い出すことすらできない。
ただ、目の前の獰猛なオスに、身も心も明け渡してしまいたいという欲求だけが私を支配していた。
「……春奈。俺のこと、見て」
シュンが、上から私を覗き込む。
非常灯の薄暗い緑色の光の下。彼の漆黒の瞳は、私への果てしない執着と欲情で、黒い炎のようにメラメラと燃え上がっていた。
「……俺はもう、アンタをただのマネージャーなんて呼ばせない。……俺の女になれよ」
絶対的な宣告と共に、彼の唇が、私の唇を深く塞いだ。
「んんっ……⁉ ジュゥッ……チュパッ……!」
これまでのどんなキスよりも、深く、ねっとりとした口付け。
私の唇を乱暴にこじ開け、熱い舌が口腔内の隅々《すみずみ》までを容赦なく蹂躙する。
息継ぎの隙すら与えられず、私の唾液ごとすべてを飲み込まれるような、圧倒的な捕食。
チュゥゥッ、ジュルル……と、いやらしい水音が非常階段に反響する。
腰をガッチリとホールドされ、壁に背中を預けたまま、口の中を徹底的に犯され続ける。
「んぁっ……はぁっ……しゅんす、け……っ」
もう、限界だった。
頭の芯が完全にショートし、全身の力が抜けていく。
私は彼を押し返すことを完全に諦め、震える両手を彼の首へと回した。
彼に、すがりつくために。
完全に、陥落したのだ。
私は自分から彼の舌を迎え入れ、泣きそうな声で懇願してしまった。
「……しゅんすけ、もっと……っ、わたしも……」
その、瞬間だった。
シュンが「っ……!」と短く息を呑み、私の腰を抱いていた手の動きが、ピタリと止まった。
「……しゅん、すけ……?」
熱に浮かされた、焦点の合わない瞳で彼を見上げる。
シュンは、乱れた髪と涙目で自分を求めている私のだらしない顔を、じっと見つめていた。
彼の呼吸は荒く、肩が大きく上下している。
今すぐにでも私のドレスを剥ぎ取り、すべてを暴き出したいという強烈なオスの本能が、彼の中で暴れ狂っているのがわかる。
しかし。
シュンは、ギリッ、と強く奥歯を噛み締めると、私の首筋に深く顔を埋めた。
「はぁっ……はぁっ……」
切羽詰まった荒い呼吸が、私の耳元に当たる。
彼はそのまま、自分の中の沸騰しそうな熱を必死に押し殺し、コントロールするように、数秒間、動かずに深呼吸を繰り返した。
「……チッ。マジで、ここで最後までやりそうになった」
「え……?」
「……こんな冷たくて狭い非常階段なんかで、春奈の全部、奪いたくねぇよ」
シュンはそう低く吐き捨てると、私からバッと身体を離し、私のドレスの背中のジッパーを手早い動作で上まで引き上げた。
そして、まだ熱の冷めない私の腕を引き、強引に歩き出させる。
「しゅんすけ、あの……」
「俺の匂いしかしない部屋の、俺のベッドの上で。……逃げ場のないとこで、朝までめちゃくちゃに泣かせたいんだよ」
シュンの瞳に宿っていたのは、その場の勢いだけの性欲ではない。
私という存在を、最も完璧な形で、誰にも邪魔されない自分のテリトリーで完全に支配したいという、恐ろしいほど純度の高い『執着』だった。
「……帰るよ。俺のマンションに」
彼は私の手をギリッと強く握りしめ、非常階段の扉へと向かった。
私は、自分が彼という絶対的な捕食者の『極上の獲物』として、ついに彼の部屋へと持ち帰られるのだという事実を、甘い絶望と震えと共に受け入れることしかできなかったのだった。




