非常階段の捕食者
――ガチャンッ、バタンッ‼
重く分厚い鉄製の防音扉を引き開け、非常階段の踊り場へと飛び込んだ瞬間。
背後で扉が閉まる鈍い音と共に、パーティー会場の華やかなオーケストラも、人々の喧騒も、すべてが分厚い壁の向こう側へと完全に遮断された。
「はぁっ……はぁっ……っ」
非常口の緑色の誘導灯だけが薄暗く点滅する、無機質なコンクリートの空間。
暖房が効きすぎていた会場内とは対極の、肌を刺すような冷たい空気が張り詰めている。
私はヒールを脱ぎ捨てるようにしてその場にへたり込み、荒れ狂う呼吸を整えるために必死で胸を押さえた。
(……逃げて、きちゃった。でも、あそこにいたら絶対、取り返しのつかないことになってた……)
心臓が、耳の奥でガンガンとうるさく鳴っている。
アルコールが回った身体は異様に熱く、息を吐くたびにシャンパンの甘い匂いが鼻を抜けた。
目を閉じると、さっきの会場でグラスを握り潰した時の、シュンのあの絶対零度の瞳がフラッシュバックする。
嫉妬、怒り、そして狂おしいほどの独占欲。
国民的アイドルという完璧な仮面をかなぐり捨て、ただの1人の『オス』として私を睨みつけていたあの顔。
(どうしよう、どこか別の場所に隠れたほうが……? もし彼がここに来たら……)
ガクガクと震える膝に力を込め、立ち上がろうと壁に手をついた、まさにその瞬間だった。
――ギィィィッ……バタンッ‼
私の真上にある、1つ上の階の非常扉が。
ものすごい勢いで蹴り開けられ、そして乱暴に閉められる音が、吹き抜けの非常階段に雷鳴のように響き渡ったのだ。
「え……っ⁉」
ビクンッと肩を跳ねさせ、音のした上を見上げる。
カンッ、カンッ、カンッ……!
硬い革靴が、コンクリートの階段を1段飛ばしで駆け下りてくる、規則的で、しかし暴力的なまでに重い足音。
逃げなければ。
本能がそう警鐘を鳴らし、私が慌てて下の階へと続く階段に足をかけようとした、次の瞬間。
「――どこ行くの」
頭上から降ってきた地を這うような低い声とともに。
ドンッ、と。
私の目の前の壁に、大きな手が叩きつけられた。
「ひゃっ……⁉」
逃げ道を完全に塞がれる。
振り返る暇すらなかった。背後からものすごい力で肩を掴まれ、私はそのまま、冷たいコンクリートの壁へと乱暴に押し付けられてしまったのだ。
「あ、痛っ……!」
「俺から逃げられると思ってんの」
背中を壁に打ち付けられ、悲鳴を上げる間もなく、私の両手首がギリッと強い力で頭上に拘束される。
見上げると、そこには。
漆黒のスリーピーススーツを乱し、肩で息をするシュンが、緑色の非常灯に照らされて、まさに悪魔のように美しく、恐ろしい顔で私を睥睨していた。
「しゅ、俊介……っ! やめ、て……誰か来たら……!」
「誰も来ない。このホテルの非常階段なんか、火事でも起きない限り誰も使わねぇよ」
シュンが1歩、距離を詰めてくる。
彼の硬く分厚い胸板が、私のドレス越しにピタリと密着する。
圧倒的な体格差。彼は全身で私を壁に縫い付け、1ミリの逃げ場すらも奪い取ってしまった。
彼から漂うのは、いつもより強く香るスパイシーなコロンの匂いと、微かに混ざる血の匂い。
「っ……俊介、手! さっきグラス割って、怪我してるんじゃ……!」
私はマネージャーとしての理性を振り絞り、壁に押し付けられている自分の顔の横にある、彼の右手を見た。
白いシャツの袖口に、微かに赤い血が滲んでいるのが見える。
「お願い、離して! 早く手当てしないと……!」
「うるせぇ‼」
――ドンッ‼
シュンの無事な方の左手が、私の顔のすぐ横の壁を力任せに殴りつけた。
コンクリートの壁が微かに震えるほどの衝撃に、私は「ヒッ……」と喉の奥で悲鳴を漏らし、ギュッと目を閉じる。
「俺の手なんかどうでもいいんだよ……っ。俺が、どんな気持ちであそこからアンタを見てたか、わかってんの……?」
耳元で、ギリリと奥歯を噛み締める音がした。
「俺の手の届かないとこで。俺以外の男に腰触られて、甘い言葉かけられて……。あんな無防備な顔して、アイツの注いだ酒、飲んで……っ!」
「ち、違うよ……! あれはただの挨拶で、私は断れなくて……っ」
「断れなくて? へえ。……じゃあ、あのおっさんがこのままアンタをホテルに連れ込もうとしたら、それも『断れなくて』ついていくつもりだったんだ」
ドロドロに濁った、真っ黒な嫉妬の炎。
シュンは私の言葉など一切聞き入れず、拘束している私の手首をさらに強く締め上げた。
「痛いっ……俊介、痛いってば……っ!」
「痛い? 俺の方がよっぽど痛てぇよ……! アンタが他の男に触られそうになるのを見るたびに、頭がおかしくなりそうなんだよ‼」
それは、怒りというよりも、悲鳴に近いような、切実なオスの咆哮だった。
いつも完璧なトップアイドルとして、すべてを思い通りにしてきたはずの彼が。
ただ私1人のことだけで、ここまで理性を失い、ボロボロになっている。
その事実に、私は恐怖と同時に、胸の奥が締め付けられるような、狂おしいほどの愛おしさを感じてしまっていた。
(……だめ。流されちゃだめ。ここで私が絆されたら、本当に後戻りできなくなる……っ)
アルコールで溶けかかっている理性を必死に繋ぎ止め、私は彼を睨み返した。
「……いい加減にして! あんたは私の担当タレントで、私はマネージャーなの! それ以上でも以下でもない! こんなことして、週刊誌にでも撮られたらどうするつもり……!」
「だから、そういう言い訳はもう聞かねぇって言っただろ」
シュンの瞳から、スッと、先ほどまでの激昂の熱が引いていく。
代わりにそこに浮かび上がったのは、冷酷なまでに静かで、獲物を完全に仕留める決意を固めた『捕食者』の絶対零度の光だった。
「マネージャーだから? 仕事だから? ……そんなくだらない肩書きが、俺から逃げるための防波堤になると思ってるなら」
シュンは私を壁に押し付けていた手をパッと離した。
拘束が解かれ、私がホッとして1歩逃げ出そうとした、まさにその瞬間。
グイッ‼
「きゃっ⁉」
シュンは私の肩を乱暴に掴み、そのまま私の身体をクルリと反転させた。
「そのままでいろ」
「なっ……なにするの……っ、俊介……!」
「アンタのその分厚い言い訳、全部ひっぺがしてやる」
背後から耳元に吹き込まれた、悪魔のような囁き。
――ジリリリッ。
非常階段の静寂を切り裂いて、鋭い金属音が響き渡った。
「っ……‼⁉」
私の背筋に、強烈な悪寒と、信じられないほどの熱が一気に駆け巡る。
嘘でしょ。
シュンの冷たい指先が。
私の首の後ろから腰にかけて一直線に伸びている、パーティードレスのジッパーを、一気に半分まで引き下ろしたのだ。
「あ、あっ……やだっ……!」
「春奈の背中……こんなに透けてるドレス着て、あのおっさんに見せつけてたんだ。……すげー嫌だ」
非常階段の冷たい空気が、剥き出しになった私の肩甲骨から背骨にかけての柔肌を直接撫でる。
ドレスが肩からずり落ちそうになるのを、私は両手を前でクロスさせて必死に押さえた。
しかし、背後は完全に無防備だ。
「だめっ……だめだよ俊介、ここはホテルなんだよ……っ! スタッフが探しに来るかも……!」
「来ればいいじゃん。……こんなとこで、俺にドレス剥がされてめちゃくちゃにされてるアンタを見たら。……もう誰も、アンタのことを『有能なマネージャー』だなんて思わなくなる」
チュッ、と。
背中の、肩甲骨の間のくぼみに。
シュンの熱く、少し湿った唇が、直接押し当てられた。
「ひぅっ……‼」
声にならない悲鳴が上がる。
マネージャーという肩書き。幼馴染という言い訳。
彼から身を守るための唯一の防弾チョッキだったそれらのすべてが、今、彼の手によって物理的に、そして精神的に、完全に引き裂かれようとしていた。




