大人の包囲網と、アルコールの罠
シュンからの強烈な『視線のマーキング』を浴びてからというもの、私の心臓はずっと早鐘を打ち続けていた。
彼があの場から動けないのをいいことに、私は壁際のさらに暗い場所、観葉植物の影になるような位置へとジリジリと後退した。
(落ち着け、私……。ここは関係者が何百人もいる公式の場。いくら俊介でも、こんなところで変な真似はできないはず……)
喉の渇きを潤すために、手元のグラスに残っていた炭酸水を一気に飲み干す。
しかし、冷たい水が胃の腑に落ちても、身体の奥でチリチリと燃え続ける得体の知れない熱は、一向に冷める気配がなかった。
「……そんな壁のシミみたいに隠れていたら、もったいないよ。安藤さん」
不意に。
喧騒を縫うようにして、深く、穏やかなバリトンボイスが耳元に届いた。
ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには2つのグラスを手にした桐生さんが、優雅な微笑みを浮かべて立っていた。
「き、桐生さん……っ! お疲れ様です。本日は、本当におめでとうございます」
慌てて頭を下げる私を見て、桐生さんは「ありがとう」と短く応え、ふっと目を細めた。
今日の彼は、深みのあるボルドーのベルベットジャケットを身に纏い、大人の色気と知性をこれでもかと漂わせている。
彼が歩くたびに漂う、上品なウッディの香水の匂い。
それは、シュンの放つ若くて獰猛なオスのフェロモンとは対極にある、完成された大人の男の香りだった。
「君も、本当にお疲れ様。シュンくんのあの素晴らしい演技を引き出せたのは、君という優秀なマネージャーが裏でしっかり彼を支えていたからだ。……さあ、乾杯しよう」
そう言って、桐生さんは私の空になったグラスを近くのテーブルに置き、代わりに、琥珀色の液体が立ち上るシャンパングラスを私の手に持たせた。
「あ、ありがとうございます……でも、私、お酒はあまり……」
「今日くらいはいいだろう? それに、こんなに美しいレディを、ただの炭酸水で酔わせずに帰すなんて、僕のプライドが許さないからね」
大人の余裕たっぷりにウインクをされ、私は思わず言葉に詰まってしまった。
シュンの強引さとは違う、スマートで、逃げ道をふわりと塞いでしまうような大人の話術。
私は戸惑いながらも、カチン、と薄いグラスを合わせ、シャンパンを口に含んだ。
「っ……」
シュワリと弾ける細かい泡と共に、甘く芳醇な香りが鼻腔を抜ける。
そして、思いのほか強いアルコールの熱が、一気に喉から胃へと滑り落ちていった。
「美味しいだろう? 君に似合うと思って、少し特別で、甘いヴィンテージを選んだんだ。……それにしても」
桐生さんはシャンパンを味わう私を見下ろしながら、その深い瞳で、私の全身を舐めるように、けれど決して下品ではない視線でゆっくりと見つめた。
「今日の君は、一段と綺麗だ。……いつも仕事着で隠しているのが罪なくらいにね」
「そ、そんな……! 着慣れなくて、さっきから落ち着かないんです。浮いてないか心配で……」
「とんでもない。その深いネイビーのドレス、君の白い肌にとてもよく映えているよ。特に……その背中のレースの透け感なんて、本当に素晴らしい」
桐生さんの大きな手が、スッと私の背後に回る。
直接触れられたわけではない。けれど、ドレスの薄いレース越しに、彼の指先が私の背骨のラインを空中でなぞるような感覚があり、私はゾクッと身をすくませた。
「き、桐生さん……っ」
「君は、自分がどれだけ魅力的な女性か、無自覚すぎる」
桐生さんが、1歩、私との距離を詰めてくる。
大人の男の香水と、シャンパンの甘い匂い。
空きっ腹にアルコールを入れたせいか、一気に酔いが回ってきたような感覚になり、足元がフワフワと覚束ない。
顔がカッと熱くなるのが自分でもわかった。
「……ねえ、安藤さん。いや、春奈さん」
不意に、名前で呼ばれ、私はハッと顔を上げた。
「君は、いつもシュンくんの後ろに隠れて、彼の世話ばかり焼いている。……でも、本当に君を大切に扱えるのは、あんな手のかかる若いアイドルじゃない。もっと、君を優しくエスコートできる『大人の男』が必要なんじゃないかな」
「え……?」
桐生さんの声は、ひどく甘く、そして決定的な誘いの色を帯びていた。
彼の顔が近づいてくる。
その視線は、私の目ではなく、私の首筋――あのロケバスの夜明け、シュンが執拗に視線を這わせ、コンシーラーで隠したキスマークのあたりへと向けられていた。
(嘘。まさか桐生さん、私が俊介に……そういうことされてるって、気づいてる……?)
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
大人の男の観察眼を甘く見ていた。
彼は、私とシュンの間に漂う、ただのマネージャーとタレントではない『歪な熱』に、とっくに気づいていたのだ。
だからこそ、私をその泥沼から掬い上げようとしているのか、それとも、ただの大人の遊びとして私を奪おうとしているのか。
「……僕なら、君にそんな怯えた顔はさせない。もっと君を、1人の大人の女性として愛してあげる自信がある」
桐生さんの手が、私の肩にそっと触れようとした、まさにその瞬間だった。
――パキンッ‼
会場の喧騒を切り裂くような、鋭いガラスの破裂音が、フロアの中心から響き渡った。
「わあっ⁉」
「だ、大丈夫ですかシュンさん⁉」
「グラスが割れるなんて……お怪我はありませんか!」
悲鳴のような声が上がり、一斉に人々の視線が会場の中心へと集まる。
私も、桐生さんも、弾かれたようにそちらへ顔を向けた。
――シュンだった。
彼の足元には、無残に砕け散ったシャンパングラスの破片が散乱している。
周囲の重役やスタッフたちが慌ててハンカチを出し、おしぼりを持って駆け寄る中。
当のシュンは、自分の右手から滴り落ちるシャンパンの雫など一瞥もせず。
ただ、真っ直ぐに。
数十メートル離れた暗がりにいる、私と、桐生さんのことだけを、死神のような瞳で睨みつけていたのだ。
「っ……‼」
私は、ヒッと息を呑み、反射的に桐生さんから数歩距離を取った。
間違いない。
シュンは、桐生さんが私に近づき、親しげに話し込み、そして私の肩に触れようとした一部始終を、重役たちに囲まれながらずっと見ていたのだ。
彼が自らの握力でグラスを握り潰してしまうほどに、その嫉妬と怒りは限界点を突破していた。
『――俺のモノに、気安く触ろうとしてんじゃねえぞ』
距離が離れているのに、彼のその激しい怒号が、直接頭の中に響いたような気がした。
シュンの全身から立ち上る、底知れないドス黒い殺気。
あの時、ロケバスで鈴木くんに向けていた敵意の比ではない。
これは完全に、私という『獲物』を奪おうとする別のオスに対する、本能からのブチギレだった。
「……シュンくん、怪我はないみたいで良かったですね」
「はい。申し訳ありません、グラスにヒビが入っていたようで。少し、洗面所で手を洗ってきます」
シュンは、周囲のスタッフに完璧な笑顔でそう謝罪すると、ゆっくりと踵を返した。
そして、バンケットルームの出口へ向かう途中、もう1度だけ、私の方へ視線を投げた。
『……来い』
音のない命令。
有無を言わさない、絶対的な支配者の宣告。
それを見た瞬間、私の足の震えは頂点に達していた。
アルコールで火照っていたはずの身体が一気に冷たくなり、心臓だけが異常な速さで警鐘を鳴らしている。
彼の元へ行けば、確実に殺される。いや、殺される以上に恐ろしくて、甘い『罰』を与えられる。
でも、ここに残れば――彼はこの会場の全員の目の前で、理性を投げ捨てて私を力ずくで連れ去りかねない。それほどまでに、彼のあの瞳は限界を超えていた。
「春奈さん? 顔色が悪いよ。やっぱりお酒が強すぎたかな」
「あ、あのっ……すみません、桐生さん! 私、少し……酔い覚ましに、外の空気を吸ってきます!」
「あっ、1人で大丈夫かい? 僕も一緒に行こうか」
「い、いえ! 大丈夫です、本当に! 失礼します!」
私は桐生さんの手を振り切るようにして、グラスを近くのテーブルにドンッと置き、逃げるようにその場を駆け出した。
7センチのピンヒールが、大理石の床をカツカツと焦燥感を煽るような音で叩く。
向かう先は、洗面所ではない。
彼の意図はすぐに分かった。2人きりになれる場所。
このフロアで唯一、人目がつかず、そしてカメラの死角になる場所。
――『非常階段』だった。




