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12/15

大人の包囲網と、アルコールの罠

シュンからの強烈な『視線のマーキング』を浴びてからというもの、私の心臓はずっと早鐘を打ち続けていた。

彼があの場から動けないのをいいことに、私は壁際《かべぎわ》のさらに暗い場所、観葉植物の影になるような位置へとジリジリと後退した。


(落ち着け、私……。ここは関係者が何百人もいる公式の場。いくら俊介《しゅんすけ》でも、こんなところで変な真似《まね》はできないはず……)


喉《のど》の渇《かわ》きを潤《うるお》すために、手元のグラスに残っていた炭酸水を一気に飲み干す。

しかし、冷たい水が胃の腑《いのふ》に落ちても、身体の奥でチリチリと燃え続ける得体の知れない熱は、一向に冷める気配がなかった。


「……そんな壁のシミみたいに隠れていたら、もったいないよ。安藤《あんどう》さん」


不意に。

喧騒《けんそう》を縫《ぬ》うようにして、深く、穏やかなバリトンボイスが耳元に届いた。


ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには2つのグラスを手にした桐生《きりゅう》さんが、優雅な微笑《ほほえ》みを浮かべて立っていた。


「き、桐生さん……っ! お疲れ様です。本日は、本当におめでとうございます」


慌てて頭を下げる私を見て、桐生さんは「ありがとう」と短く応え、ふっと目を細めた。


今日の彼は、深みのあるボルドーのベルベットジャケットを身に纏《まと》い、大人の色気と知性をこれでもかと漂《ただよ》わせている。

彼が歩くたびに漂う、上品なウッディの香水の匂い。


それは、シュンの放つ若くて獰猛《どうもう》なオスのフェロモンとは対極にある、完成された大人の男の香りだった。


「君も、本当にお疲れ様。シュンくんのあの素晴らしい演技を引き出せたのは、君という優秀なマネージャーが裏でしっかり彼を支えていたからだ。……さあ、乾杯しよう」


そう言って、桐生さんは私の空になったグラスを近くのテーブルに置き、代わりに、琥珀色《こはくいろ》の液体が立ち上るシャンパングラスを私の手に持たせた。


「あ、ありがとうございます……でも、私、お酒はあまり……」

「今日くらいはいいだろう? それに、こんなに美しいレディを、ただの炭酸水で酔わせずに帰すなんて、僕のプライドが許さないからね」


大人の余裕たっぷりにウインクをされ、私は思わず言葉に詰まってしまった。

シュンの強引さとは違う、スマートで、逃げ道をふわりと塞《ふさ》いでしまうような大人の話術。


私は戸惑いながらも、カチン、と薄いグラスを合わせ、シャンパンを口に含んだ。


「っ……」


シュワリと弾ける細かい泡と共に、甘く芳醇《ほうじゅん》な香りが鼻腔《びこう》を抜ける。

そして、思いのほか強いアルコールの熱が、一気に喉から胃へと滑り落ちていった。


「美味しいだろう? 君に似合うと思って、少し特別で、甘いヴィンテージを選んだんだ。……それにしても」


桐生さんはシャンパンを味わう私を見下ろしながら、その深い瞳《ひとみ》で、私の全身を舐《な》めるように、けれど決して下品ではない視線でゆっくりと見つめた。


「今日の君は、一段と綺麗だ。……いつも仕事着で隠しているのが罪なくらいにね」

「そ、そんな……! 着慣れなくて、さっきから落ち着かないんです。浮いてないか心配で……」

「とんでもない。その深いネイビーのドレス、君の白い肌にとてもよく映えているよ。特に……その背中のレースの透け感なんて、本当に素晴らしい」


桐生さんの大きな手が、スッと私の背後に回る。

直接触れられたわけではない。けれど、ドレスの薄いレース越しに、彼の指先が私の背骨のラインを空中でなぞるような感覚があり、私はゾクッと身をすくませた。


「き、桐生さん……っ」

「君は、自分がどれだけ魅力的な女性か、無自覚すぎる」


桐生さんが、1歩、私との距離を詰めてくる。

大人の男の香水と、シャンパンの甘い匂い。


空きっ腹にアルコールを入れたせいか、一気に酔いが回ってきたような感覚になり、足元がフワフワと覚束《おぼつか》ない。

顔がカッと熱くなるのが自分でもわかった。


「……ねえ、安藤さん。いや、春奈《はるな》さん」


不意に、名前で呼ばれ、私はハッと顔を上げた。


「君は、いつもシュンくんの後ろに隠れて、彼の世話ばかり焼いている。……でも、本当に君を大切に扱えるのは、あんな手のかかる若いアイドルじゃない。もっと、君を優しくエスコートできる『大人の男』が必要なんじゃないかな」

「え……?」


桐生さんの声は、ひどく甘く、そして決定的な誘いの色を帯びていた。

彼の顔が近づいてくる。


その視線は、私の目ではなく、私の首筋――あのロケバスの夜明け、シュンが執拗《しつよう》に視線を這《は》わせ、コンシーラーで隠したキスマークのあたりへと向けられていた。


(嘘。まさか桐生さん、私が俊介に……そういうことされてるって、気づいてる……?)


ぞわり、と背筋《せすじ》に悪寒《おかん》が走る。


大人の男の観察眼を甘く見ていた。

彼は、私とシュンの間に漂う、ただのマネージャーとタレントではない『歪《いびつ》な熱』に、とっくに気づいていたのだ。


だからこそ、私をその泥沼《どろぬま》から掬《すく》い上げようとしているのか、それとも、ただの大人の遊びとして私を奪おうとしているのか。


「……僕なら、君にそんな怯《おび》えた顔はさせない。もっと君を、1人の大人の女性として愛してあげる自信がある」


桐生さんの手が、私の肩にそっと触れようとした、まさにその瞬間だった。


――パキンッ‼


会場の喧騒を切り裂くような、鋭いガラスの破裂音が、フロアの中心から響き渡った。


「わあっ⁉」

「だ、大丈夫ですかシュンさん⁉」

「グラスが割れるなんて……お怪我《けが》はありませんか!」


悲鳴のような声が上がり、一斉に人々の視線が会場の中心へと集まる。

私も、桐生さんも、弾かれたようにそちらへ顔を向けた。


――シュンだった。


彼の足元には、無残《むざん》に砕《くだ》け散ったシャンパングラスの破片が散乱している。

周囲の重役やスタッフたちが慌ててハンカチを出し、おしぼりを持って駆け寄る中。


当のシュンは、自分の右手から滴《したた》り落ちるシャンパンの雫《しずく》など一瞥《いちべつ》もせず。


ただ、真っ直ぐに。

数十メートル離れた暗がりにいる、私と、桐生さんのことだけを、死神のような瞳で睨《にら》みつけていたのだ。


「っ……‼」


私は、ヒッと息を呑み、反射的に桐生さんから数歩距離を取った。


間違いない。

シュンは、桐生さんが私に近づき、親しげに話し込み、そして私の肩に触れようとした一部始終《いちぶしじゅう》を、重役たちに囲まれながらずっと見ていたのだ。


彼が自らの握力でグラスを握り潰《つぶ》してしまうほどに、その嫉妬《しっと》と怒りは限界点を突破していた。


『――俺のモノに、気安く触ろうとしてんじゃねえぞ』


距離が離れているのに、彼のその激しい怒号《どごう》が、直接頭の中に響いたような気がした。


シュンの全身から立ち上る、底知れないドス黒い殺気。

あの時、ロケバスで鈴木くんに向けていた敵意の比ではない。


これは完全に、私という『獲物《えもの》』を奪おうとする別のオスに対する、本能からのブチギレだった。


「……シュンくん、怪我はないみたいで良かったですね」

「はい。申し訳ありません、グラスにヒビが入っていたようで。少し、洗面所で手を洗ってきます」


シュンは、周囲のスタッフに完璧な笑顔でそう謝罪《しゃざい》すると、ゆっくりと踵《きびす》を返した。

そして、バンケットルームの出口へ向かう途中、もう1度だけ、私の方へ視線を投げた。


『……来い』


音のない命令。

有無を言わさない、絶対的な支配者の宣告。


それを見た瞬間、私の足の震えは頂点に達していた。

アルコールで火照《ほて》っていたはずの身体が一気に冷たくなり、心臓だけが異常な速さで警鐘《けいしょう》を鳴らしている。


彼の元へ行けば、確実に殺される。いや、殺される以上に恐ろしくて、甘い『罰』を与えられる。

でも、ここに残れば――彼はこの会場の全員の目の前で、理性を投げ捨てて私を力ずくで連れ去りかねない。それほどまでに、彼のあの瞳は限界を超えていた。


「春奈さん? 顔色が悪いよ。やっぱりお酒が強すぎたかな」

「あ、あのっ……すみません、桐生さん! 私、少し……酔い覚ましに、外の空気を吸ってきます!」

「あっ、1人で大丈夫かい? 僕も一緒に行こうか」

「い、いえ! 大丈夫です、本当に! 失礼します!」


私は桐生さんの手を振り切るようにして、グラスを近くのテーブルにドンッと置き、逃げるようにその場を駆け出した。

7センチのピンヒールが、大理石の床をカツカツと焦燥感《しょうそうかん》を煽《あお》るような音で叩《たた》く。


向かう先は、洗面所ではない。

彼の意図はすぐに分かった。2人きりになれる場所。


このフロアで唯一、人目がつかず、そしてカメラの死角になる場所。


――『非常階段』だった。

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