ドレスアップ
シャンデリアの眩い光が、無数に行き交うクリスタルグラスに反射して、フロア全体をキラキラと華やかに照らし出している。
上品なオーケストラのBGMと、着飾った人々のざわめき。
微かに漂う、高級な香水とアルコールが混ざり合った、大人の夜の匂い。
都内でも有数の格式を誇る外資系高級ホテルの、広大なメインバンケットルーム。
今日は、あの過酷な山奥での撮影を乗り越えた映画の、オールアップ(全編撮影終了)を祝う盛大な打ち上げパーティーの夜だった。
「……はぁ。やっぱり、こういう場は何度来ても慣れないな……」
私は壁際の邪魔にならない位置にひっそりと立ち、手にしたグラスの炭酸水を1口だけ含んで、小さくため息をついた。
普段の私は、機材を運んだり、シュンの身の回りの世話をするために、ストレッチの効いた動きやすい黒のパンツスーツにローヒールという、完全に『裏方』に徹した出立ちばかりだ。
しかし、今日のようなスポンサーやテレビ局の重役たちが勢揃いする場では、メインキャストの専属マネージャーが安っぽい格好をしているわけにはいかない。
私が今身に纏っているのは、深いネイビーブルーのパーティードレスだった。
身体のラインを拾うタイトなシルエットで、スカートの丈は膝下まである上品なものだが、背中から肩甲骨にかけてのラインが少しだけ透けるレース素材になっている。
足元には、普段は絶対に履かないような7センチの細いピンヒール。
慣れない靴のせいで、立っているだけでもふくらはぎが微かに張って、心もとない気分になる。
(……なんか、すごくスースーする。やっぱり、もっと露出の少ないドレスにすれば良かった……)
私は落ち着かない気分で、露出した首元や鎖骨のあたりをそっと手で押さえた。
首筋に触れた瞬間。
ほんの数日前、密室の楽屋でシュンに噛み付かれるようにキスマークをつけられた時の、あの熱い吸啜の感触がフラッシュバックし、ビクリと肩が跳ねる。
痕自体はもうほとんど消えかかっているが、彼が私の肌に刻み込んだ『記憶』は、細胞の奥底にべっとりとこびりついて離れない。
『明後日。この映画のオールアップの打ち上げがあるでしょ』
『そこが、最後のデッドライン。……もう仕事だとか、マネージャーだとか、そういう言い訳は一切聞かないから』
――ドクン、と。
脳裏に蘇る、彼の低く艶やかな声。
それを思い出すだけで、暖房の効いたバンケットルームにいるはずなのに、足の先からジワジワと甘い痺れが這い上がってくるのがわかる。
私は無意識のうちに、ドレスの下で両脚をきつく交差させた。
ストッキング同士が擦れる微かな感覚が、あの深夜のロケバスで、彼の手が太ももの内側を執拗に撫で回してきた時の、狂おしいほどの焦燥感を強制的に呼び起こす。
(だめだめ……っ、今日は仕事! 私はシュンのマネージャーなんだから、しっかりしなきゃ……!)
私はフルフルと首を横に振り、無理やり熱を持った身体の奥の疼きを沈み込ませようとした。
今日が終われば、彼は宣言通り、私を自分の部屋に連れ込もうとするだろう。
理性を総動員して「ダメだ」と自分に言い聞かせているのに、心のどこかで、彼に完全に支配され、溶かされてしまうその瞬間を、恐ろしいほど待ち望んでしまっている自分がいる。
その矛盾した感情が、私をひどく不安定にさせていた。
ふと、会場の中心へと視線を向ける。
そこには、何十人もの人だかりができていた。
映画の出資者である大企業の社長や、有名な映画監督、プロデューサーといった錚々《そうそう》たる権力者たちが、こぞって1人の青年の周りを囲み、談笑している。
その輪の中心に立つのは、間違いなく、今夜の主役だった。
「……俊介……」
思わず、ぽつりとその名前が漏れた。
今日のシュンは、普段の少しチャラいアイドルの衣装ではなく、漆黒の仕立ての良いスリーピーススーツに身を包んでいた。
少し長めの金髪は、額を出して後ろに流すようにタイトにセットされており、いつもより格段に大人びた、息を呑むような色気を放っている。
180センチを超える長身と、無駄のないしなやかな体躯。
グラスを持つ長い指先の所作すらも完璧で、50代、60代の重役たちを相手に、彼は1歩も引くことなく、余裕のある美しい微笑みを浮かべて会話を回していた。
(すごい……。本当に、遠い人になっちゃったみたい)
カメラが回っていない公の場でも、彼は完璧な『トップスター』だった。
誰もが彼を称賛し、彼のご機嫌を伺い、彼の才能に群がっている。
私より頭1つ小さくて、転んでは泣きべそをかき、私の後ろに隠れていた小さな男の子の面影など、今の彼には微塵も存在しなかった。
眩しすぎるその光景に、私は一抹の寂しさと、大きな誇らしさを感じながら、壁際から静かに見守っていた。
今は、それでいい。
彼はあの光り輝く世界の中心にいるべき人で、私はこうして遠くの暗がりから彼を支える裏方だ。
それ以上を望んではいけないし、あのロケバスでの出来事は、ただの熱病のような、一時の気の迷いだったのだと。
そうやって、自分の中に残る最後の理性の壁を補強しようとした、まさにその時だった。
――ふと。
数十メートル離れた会場の中心で。
重役たちの話に笑顔で頷いていたはずのシュンの顔が、不意にこちらに向けられた。
「え……っ」
何十人もの人間が間を行き交い、様々な障害物があるというのに。
彼の切れ長の瞳は、まるで最初から私の居場所を完全に把握していたかのように、コンマ1秒の狂いもなく、壁際の暗がりに潜んでいた私を真っ直ぐに射抜いたのだ。
ドクン‼
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ね上がった。
目が、合った。
遠く離れているのに、その視線には明確な『質量』があった。
重役たちに向けられていた愛想の良いアイドルの笑顔は、私と目が合った瞬間に、完全に消え去っていた。
漆黒の瞳に宿っているのは、飢えた肉食獣が、ついに自分の『獲物』を捕捉した時の、絶対的な捕食者の光。
シュンの視線が、私の顔からゆっくりと下へと下がる。
露出した首筋、鎖骨、そして、ドレスのタイトな生地が張り付いた胸のラインから、交差させた脚へと。
触れられてもいないのに、まるで彼の熱い手のひらで、直接ドレスの上から身体中をねっとりと撫で回されているような強烈な錯覚に陥り、私の全身の産毛がゾワリと逆立った。
『――今日、絶対に逃がさないから』
声など聞こえるはずがない距離だ。
それなのに、彼のその暗い瞳が、私にそう囁きかけているのがはっきりとわかった。
「っ……」
私は息をするのも忘れ、蛇に睨まれた蛙のように、その場から1歩も動くことができなくなってしまった。
周囲の華やかなざわめきが、急速に遠ざかっていく。
世界には今、彼と私しかいないような錯覚。
シュンは私を視線で拘束したまま、手にしたグラスのシャンパンを、私の唇を味わうかのようにゆっくりと喉に流し込んだ。
そのひどく卑猥で、雄々《おお》しい喉仏の動きに、私の下腹部の奥がきゅぅっと熱く締め付けられる。
彼が再び重役たちの方へ顔を向け、完璧な笑顔に戻るまでの、ほんの数秒間。
それは、私にとって永遠にも等しい、甘く恐ろしい『宣告』の時間だった。
「……どうしよう。私……」
手にした炭酸水のグラスが、微かにカタカタと震えている。
もう、後戻りなんてできない。
私がどんなに理性の壁を築こうとも、あの美しいケダモノは、今夜確実に、私のすべてを食い破りに来る。
私は1人、これから訪れるであろう甘い陥落の予感に、ただ身を震わせることしかできない。




