夜明けの光と、溶け落ちた理性
バタン、と。
ディレクターとシュンが降りていったロケバスのドアが閉まり、再び車内が静寂に包まれる。
「はぁっ……あぁっ……」
1人残された私は、堰を切ったように荒い呼吸を繰り返し、ガクンと座席に崩れ落ちた。
全身の力が抜け、指先ひとつ動かすことすら億劫だ。
暖房の効いた車内なのに、身体の奥から変な汗が止まらない。
タイトスカートの下、彼に触れられていた太ももの内側が、火傷をしたようにジンジンと熱を持っていた。
(……どうしよう。私……っ)
両手で顔を覆うと、自分の手のひらが信じられないほど熱いことに気づく。
寸止めにされた下腹部の奥は、キューッと締め付けられるような疼きと、どうしようもない空虚感を抱えたまま、ドロドロに溶けきっていた。
下着のクロッチ部分が、自分の放った熱と湿り気でひどく不快だ。
けれど、その不快感すらも、彼に暴かれた『女としての証』のようで、狂おしいほどの羞恥と背徳感を煽ってくる。
もし、あの瞬間にディレクターがバスに乗ってこなかったら。
私は間違いなく、スタッフが前で寝ているこの車内で、彼の手によってその先に達し、声をあげてしまっていた。
彼を拒絶するどころか、自分から彼にすがりつき、もっと触れてほしいと懇願してしまっていた自分の姿が、脳裏に鮮明に焼き付いている。
「……バカみたい。私、完全に……俊介に狂わされてる」
震える手でスカートの裾を直し、乱れた髪を整える。
外のロケ現場からは、「テスト行きまーす!」というスタッフの威勢の良い声と、シュンのシリアスな演技の声が微かに聞こえてくる。
数分前まで、毛布の下で私をあそこまでめちゃくちゃに責め立てていた男が、今はカメラの前で完璧な『俳優』として立ち回っているのだ。
その恐るべき切り替えの早さと、オスの本能の底知れなさに、私は絶望的なまでの敗北感を味わっていた。
◆◆◆
午前6時。
山の稜線から白々と夜が明け始め、冷たい冬の空気が朝日に照らされてキラキラと光り出した頃。
「――はい、カット! オッケーです! これにて、本日の山奥ロケ、全編終了となります! 皆様、本当にお疲れ様でしたー‼」
監督のメガホンを通した労いの声と共に、現場に割れんばかりの拍手が巻き起こった。
過酷な深夜の極寒ロケを乗り切ったスタッフたちが、安堵の笑顔で互いの肩を叩き合っている。
「お疲れ様でした! ありがとうございました!」
ダウンコートを羽織ったシュンが、四方八方に向かって深く頭を下げ、眩しいほどのアイドルの笑顔を振りまいている。
私はロケバスの外に出て、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、その光景を見つめていた。
夜明けの清々《すがすが》しい光が現場を包み込んでいるというのに、私の身体の奥だけは、まだ昨夜の暗闇の熱を引きずったまま、ドロドロに濁っている。
「安藤さん、お疲れ様でした!」
「あ、鈴木くん。お疲れ様です」
撤収作業の中、機材を運んでいた鈴木くんが爽やかに声をかけてきた。
昨夜、シュンに露骨な敵意を向けられて逃げ出してしまった彼だが、今は無事に撮影が終わった達成感でいっぱいのようだ。
「いやー、寒かったですね! でもシュン君の最後の演技、モニターで見てましたけど鳥肌モノでしたよ。安藤さんも、一晩中付きっきりで大変でしたね」
「いえ……私は何も。本当に、皆様のおかげです」
私が曖昧な笑みで返事をした、その時だった。
「春奈」
背後から、トンッと軽く肩を叩かれた。
振り返ると、スタッフたちへの挨拶を終えたシュンが、スッと私の隣に並んで立っていた。
「あ、シュン君! お疲れ様でした、最高の演技でした!」
「ありがとうございます、鈴木さん。鈴木さんもお疲れ様です。……ほら、春奈も帰る準備して。俺、もう限界まで眠い」
シュンは鈴木くんに向かって爽やかに微笑んだ後、私に向かって「手のかかる弟分」のような無防備な顔で甘えてみせた。
一見すれば、いつもの微笑ましい『アイドルとマネージャー』のやり取りだ。
しかし、シュンが私の肩に置いている手は、ダウンコート越しでもわかるほど強い力で、私を自分の側に引き寄せるようにガッチリとホールドしていた。
『俺の女に、気安く話しかけんな』
声には出していない。しかし、その圧倒的な独占欲とマーキングの意志が、無言の圧力となって鈴木くんに放たれている。
鈴木くんは一瞬ビクッとした後、「あ、はい! じゃあ俺、機材車戻りますね!」と、またしても逃げるように去っていった。
彼が見えなくなった瞬間。
シュンは私の肩を抱いていた手をスッと滑らせ、背後に回して、私の腰をグイッと強引に抱き寄せた。
「ひゃっ……⁉ ちょっ、シュン……っ」
「しーっ。……あいつ、まだアンタのこと見てた。マジで目障り」
周囲のスタッフからは、私に寄りかかって甘えているようにしか見えない絶妙な角度。
けれど彼の瞳は、朝の光の下でもなお、肉食獣のそれだった。
「……顔、すげー赤いよ、春奈。寝不足? それとも……昨日のバスの中のこと、まだ思い出して感じてんの?」
「なっ……! ちが……っ!」
図星を突かれ、私の顔は火が出るように熱くなった。
シュンは楽しそうに目を細め、私の耳元へと顔を寄せる。
「俺は、めっちゃくちゃ欲求不満なんだけど。……あのまま最後まで春奈のこと、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった」
「っ……バカなこと言わないで、もう帰るよ……!」
「逃げられると思ってんの?」
私が彼から離れようとしたのを、腰に回された腕が絶対に許さない。
彼は私の耳たぶを、チュッ、と音を立てて軽く甘噛みした。
「ひぅっ……!」
「明後日。この映画のオールアップの打ち上げがあるでしょ」
低く、甘く、鼓膜を直接撫でるような声。
「そこが、最後のデッドライン。……もう仕事だとか、マネージャーだとか、そういう言い訳は一切聞かないから」
「しゅん、すけ……」
「昨日のバスの続き。……打ち上げの夜、覚悟しといてね。朝まで絶対に、寝かせないから」
それは、宣告だった。
私が彼という絶対的な捕食者に完全に食べ尽くされるまでの、最後通告。
シュンはニヤリと嗜虐的な笑みを浮かべると、私の腰から手を離し、「じゃあ車乗ろっか!」といつもの爽やかなアイドルの声に戻って歩き出した。
私はその広い背中を見つめながら、自分の足がガクガクと震えているのを自覚していた。
怖い。恐ろしい。
だけどそれ以上に。
私の身体は、明後日の夜に訪れるであろう『完全な陥落』を、どうしようもないほどの期待と熱で、待ち焦がれてしまっていたのだった。




