エピローグ
プルチックの感情の輪について知ったのは、俺が共感覚についての研究を初めてから、数か月が過ぎた頃の事だった。
俺が感じ取れる感情と色についての説明を受けた香月先輩が、思い当たる節があると調べてくれたのが、それを知れるキッカケとなった。
あの人の知識の深さには、いつも驚かされるばかりだ。
説明によると、プルチックの感情の輪というのはアメリカの心理学者であるロバート・プルチックが提唱した、感情の理論に基づく視覚的なモデルの事らしい。
八つの基本感情に基づいていて、それらの感情がそれぞれ色で示されている。
その感情モデルを図解した画像を見たとき、俺はそれを初めて見た気がしなかった。
小さい頃に、どこかで見たことがあるような。
そんな、デジャブのような感覚に陥ったのだ。
もしかしたら、その感情モデルが俺の共感覚という現象の、ルーツとなっているのかもしれない。
なぜなら、俺が共感覚で感じ取る目の色と、プルチックが提唱した感情モデルが指し示している感情の色は、その全てが一致していたからだ。
それは、もし俺が万物研究会に入っていなかったら、絶対に知りえなかった事だろう。
こんな感じで、俺の研究に対する進捗については周りの助けもあり、悪くはないと言った所だった。
俺以外のメンバーが進めている研究についても、俺が分かっている範囲で少し触れて置こうと思う。
朝山先輩は、幽体離脱に対しての理解をもっと深めていこうと思っているらしい。
この前聞いた話では、変性意識と呼ばれる状態について調べているということだった。
変性意識は通常の意識状態とは異なる、意識の変化した状態を言うらしい。
なんでも、幽体離脱中はこの変性意識の状態にあるという事が分かったので、変性意識についての知識を足がかりに、幽体離脱への理解を深めていくと話していた。
いつか、彼女が宇宙の果てへと辿り着ける日は来るのだろうか。
それは、正直分からない。
だが、彼女が幽体離脱を用いて宇宙の果てへの到達を望み続ける限り、俺はこれからも研究会の仲間として応援を続けていくつもりだ。
香月先輩は、究極の問いそのものではなく、その周囲に広がる未知へ目を向けようとしていた。
世界の真理を解き明かすという目的自体は、きっと変わっていない。
ただ、香月先輩はもう、以前のように必ず辿り着けるとは思っていない気がした。
それでもなお、彼女は未知へ手を伸ばし続けている。
まるで、閉じた箱の壁を、内側から壊そうとしているみたいに。
その姿は危うくて、けれどどうしようもなく香月先輩らしかった。
きっとあの人は、たとえ世界そのものに限界があったとしても、目的を達成するために最後まで抗い続けるのだろう。
もし本当に誰かが、この世界の外側へ手を届かせることができるのなら。
それはきっと、香月先輩のような人間なのだと思った。
神崎は、これからも次元についての研究を続けていくらしい。
観測者は、自分たちとは異なる次元に存在している。
その考えは、今も変わっていないようだった。
以前、神崎が言っていた言葉を思い出す。
――普通に、話がしてみたい。
あいつはきっと、本気なのだろう。
観測者がどんな存在なのかも分からないまま、それでも理解したいと願っている。
怖がりなくせに、そういう所だけは妙に真っ直ぐだ。
だからなのか、最近の俺は神崎がその向こう側を見ていても、前ほど嫌な気持ちにならなくなっていた。
多分……神崎が見つめている世界ごと、好きになってしまったからだと思う。
もしかしたらいつか本当に、神崎が研究を重ね、次元の壁みたいなものを越えて、観測者の元へ辿り着く日が来るのかもしれない。
その時は……。
どうか、優しくしてやってほしい。
あいつはきっと、お前が思っているよりずっと不器用で、寂しがり屋だから。
◇ ◇ ◇
不思議なもので、観測者という得体の知れない存在がいるこの状況にも、俺たちは少しずつ慣れ始めていた。
人間の適応力というのは、本当に凄い。
最初は気味が悪いとしか思えなかったものを、今では日常の一部として受け入れてしまっているのだから。
いつもの放課後、夕陽に染まった帰り道を俺と神崎は並んで歩いていた。
神崎がこちらを見て、静かに二度瞬きをする。
観測者がいる。
その合図を受け取りながら俺はぼんやりと、そんな事を考えていた。
ただ、一つだけ。
どうしても頭から離れないものがある。
あの日、本屋で神崎が見せた、あの異様な反応。
結局、あの時なぜ神崎があそこまで取り乱していたのか、俺は聞けていない。
問いかけても、「何でもない」と返されるだけだった。
翌日には、もういつもの神崎に戻っていた。
だから無理に聞き出そうとは思わなかったが、それでも時折、考えてしまう。
あいつはあの日、一体何を見たのだろうか、と。
「ねえ、岩倉君」
不意に、神崎が口を開く。
「真実を追い求めた結果、知らない方が良かった事を知ってしまったら、どうする?」
俺は少しだけ考える。
そんなもの、多分これから先、何度だってある。
知りたいと思ってしまう以上、人間は止まれない。
例えその先に、後戻りできない何かがあったとしても。
そういう事を考えるようになった辺り、俺も相当、香月先輩の影響を受けているのだろう。
思わず少し笑いそうになりながら、俺は答えた。
「どうするも何も、知っちまったなら受け入れるしかないだろ」
「うん」
神崎が小さく頷く。
「岩倉君なら、そう言うと思った」
その横顔は、どこか安心したようにも見えた。
「岩倉君、悪魔でもぶっとばすんだもんね」
「……香月先輩に聞いたな?」
「うん。楽しそうに話してた」
神崎が少しだけ笑う。
多分、香月先輩と同じ想像をしているのだろう。
悪魔を殴り飛ばしている俺の姿でも浮かんでいるのかもしれない。
「そういえば、香月先輩に聞きたかった事は聞けたのか?」
「ううん。聞いてない」
「なんで?」
「……もう、いいから」
その言い方は、不思議だった。
諦めたようにも違った。
何かを受け入れた人間の声だった。
「香月先輩が、岩倉君との話を私にした理由。それで、大体分かったから」
その意味を聞き返そうとしたが、結局、言葉にはならなかった。
神崎の声が、妙に静かだったからだ。
夕陽が街並みの向こうへ沈みかけ、オレンジ色の光が長く伸びた影を路上へ落としている。
吹き抜ける風が、少しだけ夏の匂いを運んできた。
神崎は揺れた髪を押さえながら、ゆっくりとこちらを見る。
いや、違う。
俺の向こう側を見ていた。
その瞳には、迷いがなかった。
「どんな事実があったとしても、私がやる事は変わらないから」
その声は、不思議なくらい真っ直ぐだった。
「時間はかかるかもしれない。でも――」
神崎が、小さく笑う。
夕陽を溶かしたような虹彩が、静かに揺れていた。
「絶対に、辿り着いてみせる」
それは宣言だった。
諦めないという意思表示だった。
例えどれだけ遠く離れていても。
例え次元が違ったとしても。
例え、この世界そのものに境界があったとしても。
それでも神崎怜菜は、手を伸ばすのだろう。
外側へ向かって。
そして最後に。
その美しすぎる瞳から涙を流して、神崎は微笑んだ。
「――待っていて。いつか、貴方に会いに行くから」




