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プルチックの瞳③

「つまり、小夜子先輩は、観測者をラプラスの悪魔みたいな万能の存在だと思ってるってこと?」

「多分な。少なくとも、俺にはそう聞こえた」


 中間考査を終えた週の日曜日。


 俺は神崎に誘われ、以前にも立ち寄った駅前のファーストフード店へ来ていた。


 本を買いに行きたいから付き合ってほしい。


 理由はそれだけだった。


 呼び出されたのが十一時過ぎだったこともあり、先に昼食を済ませてから本屋へ向かう流れになっている。


 窓際のカウンター席。


 前と同じように、神崎は両手でハンバーガーを持ちながら、小動物みたいに少しずつ食べ進めている。


 その様子を眺めていた俺の視線に気づいたのか、神崎がこちらを見た。


 そして、 静かに二度、瞬きをする。


 観測者がいる。


 最近では、その合図にも随分慣れてしまった。


 その瞬間だけはいつも、神崎の瞳がほんの少しだけ遠くを見る。


 俺ではない何かを。


「小夜子先輩は私なんかより、全然思考が深い人だから」


 神崎が紙コップを指先で回しながら言う。


「だから、そう思ったってことは、きっと私達が気づけてない何かに辿り着いたんだと思う」

「かもな。でも、俺にはさっぱり分からん」


 俺は自分の目元を軽く指差した。


「神崎の仮説だと、観測者って俺の顕在意識を通して世界を見てるだけなんだろ?」

「うん」

「だったら、なんで全知全能みたいな話になるんだよ。考えれば考えるほど意味分からん」


 神崎は少しだけ考え込むように視線を落とした。


「……小夜子先輩、他にも何か言ってなかった?」

「他?」


 香月先輩とのやり取りを思い返す。そういえば、妙に引っかかる言葉が他にもあった。


「確か、箱の中がどうとか言ってたな」

「箱?」

「ああ。箱の中の猫であり続けるつもりはないとか」


 神崎の表情が僅かに変わる。


「……シュレディンガーの猫?」


 そんな疑問符が付きそうな口調で言われても、俺はそんな甘そうな名前が付いた猫の事を知らない。


「なんだその、シュレディンガーの猫って」

「シュレディンガーの猫は、量子力学で有名な思考実験の一つ」

「それは、どんな実験なんだ?」

「思考実験の内容は、箱の中に生きている猫と五十パーセントの確率で毒ガスが発生する装置を一緒に入れて、密閉するというもの」

「……なんだそれ、怖い実験だな」

「思考実験だから、実際にそれを行う訳ではないけど」


 そうだとしても、猫好きな俺からすると、そんな実験は考えるだけでも残酷だと思わずにはいられない。


「まあ、それは良いか。で、その実験から何が分かるんだ?」

「量子力学的な視点では、五十パーセントの確率で毒ガスが発生する装置と、一緒に箱の中に密閉されている猫は、箱を開けて状態が観測されるまでは、生きているとも死んでいるとも言える状態にあると考えられている」


 神崎に説明をされても、いまいちピンとこなかった。


「なんでだよ? 観測しなくても、生きているか死んでいるかくらい分かるだろ」

「なんで、そう思うの?」

「なんでって、密閉状態にある箱の中でだって、猫は動くし鳴き声だってあげるだろ。見えなくてもにゃーって鳴き声が聞こえれば、ああ生きてるなって分かるだろ」

「……そういう突っ込みをされると、私もどう返して良いのか分からなくなる」


 珍しく、神崎が困ったような表情を浮かべている。


 俺は、それが少しだけおかしかった。


「うん、分かった。その箱はとても固い素材でできていて、完全な防音性を備えているとしたら、どう?」

「うーん、確かにそれなら、実際に箱を開けてみるまでは分からないかもな」

「つまり、この思考実験で何が言いたいのかというと、観測される事によって猫の状態が生きているのか死んでいるのかが確定するということ。逆に言えば、観測さえされなければ、確定した状態にはならない。観測という行為が物事の結果に与える影響を示すために提案された思考実験。それを提案したのが、シュレディンガーという物理学者だった。そのことから、この実験はシュレディンガーの猫と呼ばれている」


 神崎の根気強い説明のおかげで、俺にもなんとか理解は出来たように思う。


 しかし、それがどのようにして香月先輩の言葉と結びつくのだろうか。


 観測者をラプラスの悪魔のような存在だと捉え、自分をシュレディンガーの猫だと考えている?


 どういう思考回路になったらそうなるのか、俺には全く理解不能だった。


 ただ観測するだけの存在が、全知全能の悪魔であるはずがない。


 この世界は密閉された箱の中などではなく、俺たちがそこに閉じ込められた猫だとも全く思えない。


「観測されることで物事が確定するっていう考え方と、観測者の話が、どこかで繋がってる気がする……んだけど……」


 その時だった。

 神崎の肩が小さく震えた。


「……神崎?」


 見ると、神崎は自分の腕を抱くように擦っていた。


 まるで、急に寒気を感じたみたいに。


「どうした? 寒いのか?」

「違う……なんか、急に」


 神崎の視線が揺れる。


 その瞳の色が、不安定に滲んでいた。


「嫌な感じがして」

「風邪じゃないのか?」

「……多分、違う」


 そう言ったあと、神崎は黙り込んだ。


 まるで、何かに気づきかけているみたいに。


 ◇   ◇   ◇


 昼食を終えた俺たちは、そのまま駅前の本屋へ向かった。


 休日の駅前は思っていたより人が多く、行き交う人々の声や車の走行音が絶え間なく耳へ入り込んでくる。


 けれど、本屋の自動ドアを潜った瞬間、それらの喧騒はまるで別世界のものみたいに遠ざかった。


 冷房の効いた静かな空気、紙とインクの匂い、規則正しく並べられた本棚。


 その空間だけ、時間の流れが少し緩やかになっている気がした。


 神崎は店内を見回しながら、小さく呟く。


「……落ち着く」

「本屋好きなのか?」

「嫌いじゃない。静かだから」


 それだけ言って、神崎は棚に並んだ本の背表紙へ視線を滑らせていく。


 どうやら、以前俺が読んでいた本に興味を持ったらしい。


 香月先輩から題名を聞き、同じものを読んでみたくなったとのことだった。


 時刻は既に十四時を回っている。


 休日の書店らしく、店内には学生や社会人らしき客がまばらにいた。


 そんな光景をぼんやり眺めながら、俺は神崎へ本のタイトルを伝えた。


「多分、文芸コーナーの奥の方にあると思う」

「探してくる」


 神崎はそう言い残し、店の奥へ歩いていった。


 俺も暇潰しがてら、小説コーナーを見て回る。


 家にはまだ読み終えていない本が山ほど積まれている。


 それなのに、本屋へ来ると新しい本が欲しくなるから困る。


 表紙に惹かれて文庫本を一冊手に取り、パラパラとページを捲る。


 紙を擦る音。

 静かな空調音。

 時折聞こえる、誰かが本を棚へ戻す小さな音。


 その空間だけ、現実から少し切り離されているみたいだった。


 どれくらいそうしていただろう。


 不意に、すぐ近くで本が落ちる音がした。


 パタリ、と乾いた音。


 妙に静かな店内だったからか、その音だけがやけに耳へ残る。


 俺は本から顔を上げ、音のした方向へ回り込む。


 そして、棚の陰に立つ神崎の姿を見つけた。


 足元には、文庫本が一冊落ちている。


 けれど神崎は、それを拾おうとしていなかった。


 ただ呆然と、その本を見下ろしている。


「まさか……」


 神崎が小さく呟く。


「そんな……違う、そんな筈……」


 その声は、普段の神崎からは想像出来ないくらい掠れていた。


「ラプラスの悪魔……観測されることで存在が確定する? 顕在意識を通した観測……」


 ぶつぶつと、何かを反復するように呟いている。


 肩が微かに震えていた。


「まさか、私たちって――」


「……神崎?」


 俺が声を掛けた瞬間だった。


 神崎の身体がビクリと震え、勢いよくこちらを振り向く。


 そして俺は、思わず息を呑んだ。


 その瞳が、あまりにも美しかったから。


 怒り。

 恐れ。

 期待。

 驚き。

 喜び。

 悲しみ。

 信頼。

 嫌悪。


 ありとあらゆる感情が、一つの虹彩の中で混ざり合っている。


 まるで感情そのものが輪になり、静かに循環しているみたいだった。


 その瞳は、人の感情そのものを閉じ込めているみたいだった。


 そして俺は、気づいてしまう。


 神崎の瞳の中心に向けられている視線は、俺ではない。


 もっと遠く。

 もっと向こう側。

 俺たちの世界の外側へ向けられている。


 なのに、不思議と悲しくはなかった。


 ああ、そうかと思った。


 俺はきっと。


 神崎怜菜という人間そのものではなく。


 神崎が見ている世界ごと、好きになってしまったのだ。


 理解出来ないもの。

 得体の知れないもの。


 それでも必死に手を伸ばそうとしている、その姿ごと。


 これから先も神崎の瞳には、俺ではない何かが映り続けるのだろう。


 それでも――。


 それでも俺は、神崎怜菜の隣にいたいと思ってしまった。


 いつか――。


 いつかその瞳が、俺だけに収束する日が来ることを願って。

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