プルチックの瞳②
今日はバイトがあるから研究会には顔を出せない。小夜子のこと、よろしくね。
そんな言葉を最後に、朝山先輩とは別れた。
あそこまで言われてしまえば、流石に無視はできない。
放課後、俺はそのまま部室棟へ向かっていた。
途中、神崎からメッセージが届く。
【今日は中間考査の勉強するから休む】
流石は優等生だ。俺なんて、勉強しないとなと思っているだけで一日が終わるタイプだというのに。
そんな現実逃避じみたことを考えているうちに、万物研究会の部室前へ辿り着く。
扉を開けると、室内には既に香月先輩の姿があった。
香月先輩は窓際に立ち、ぼんやり外を眺めていた。
夕暮れ前の曇り空。ガラスには室内が薄く反射している。
その姿が妙に静かで、一瞬声を掛けるのを躊躇った。
俺に気付いた香月先輩が振り返る。
「やあ、岩倉君。お疲れ様」
笑っている。けれど、どこか無理に口角を上げているようにも見えた。
「お疲れ様です」
香月先輩の瞳を見る。紺色。沈んだ色だった。
悲嘆。
疲労。
諦念。
そんな感情が薄く混ざっている。
「珈琲を淹れよう」
そう言って立ち上がろうとした香月先輩を、俺は軽く手で制した。
「今日は俺がやりますよ。先輩、座っててください」
「おや、気を遣わせてしまったかな」
「そういうわけじゃないです」
「ふふ。では、お言葉に甘えよう」
香月先輩は再び椅子へ腰を下ろす。
俺は棚から器具を取り出し、珈琲を淹れ始めた。
豆を挽く音が、静かな部室へ広がる。その間も香月先輩は窓の外を見ていた。
いや、 正確には窓に映るこちら側を見ているようにも思えた。
朝山先輩の言っていた通りだ。どう見ても様子がおかしい。
二人分の珈琲を淹れ終え、紙コップを差し出す。
香月先輩は「ありがとう」と小さく呟いた。
「……元気ないですね」
俺がそう言うと、香月先輩の動きが一瞬だけ止まった。
「何かありました?」
「いや、別に――」
そこで目が合う。紺色の奥へ、黄緑が滲む。
香月先輩が小さく笑った。
「何もない、と言っても、君にはあまり意味がないみたいだね」
「顔色見るの、得意なんで」
「顔色というより、もっと別のものを見ている気がするけれど」
図星だった。俺が誤魔化すように珈琲へ口をつけると、香月先輩もそれに倣う。
「少しね、気力を削がれてしまったんだ」
「気力?」
「ああ。やる気、と言ってもいい」
彼女は紙コップを眺めながら続ける。
「私は昔から、世界の真理を知りたいと思っていた」
その声音は穏やかだった。けれど、どこか遠いと感じた。
「人類はいずれそこへ辿り着けると、本気で思っていたんだ」
香月先輩らしい考え方だと思った。
この人はずっと、理解することを諦めない人だから。
「でも最近、ふと思ってしまったんだよ。もし最初から、全部決められていたとしたら――ってね」
その言葉に、妙な寒気が走る。
「ラプラスの悪魔って知っているかい?」
俺は首を横に振った。
「簡単に言えば、完全に世界を理解できる存在だよ」
香月先輩は静かに説明を始める。
「この瞬間の全情報を把握できれば、未来も過去も全て予測できるという考え方だ」
聞いているだけで頭が痛くなりそうな話だった。
「量子力学によって否定された概念ではある。けれど」
香月先輩は小さく息を吐く。
「もし、それに近しい存在が本当にいたら?」
窓ガラスに、俺たちの姿がぼんやり映る。
「私達の選択も、思考も、出会いも、全部最初から決まっていたのかもしれない」
その瞬間、香月先輩の瞳の色が、ほんの一瞬だけ多彩な色を宿したように見えた。
神崎と……同じ。
「そうだとしたら、私の知る人類は、永遠に私が求めている真理へと到達は出来ない」
それはいったい、どういう意味だろう。
俺は黙って香月先輩を見ていた。
この人が、ここまで弱気になっているのを初めて見た気がした。
だから、気付けば口が動いていた。
「なら」
香月先輩がこちらを見る。
「その悪魔、ぶっとばしましょう」
数秒、沈黙の時が流れた。
「……え?」
「だから、全部決めてる奴がいるなら、そいつぶっとばせばいいじゃないですか」
香月先輩がぽかんとする。
「邪魔してくるなら、まず殴る。それから考える」
「はは……」
香月先輩は堪えきれないみたいに笑った。
「君は時々、本当に予測できないね」
「よく言われます」
「悪魔を殴る高校生か……」
肩を震わせながら笑う香月先輩を見て、少し安心する。
「そうだね」
香月先輩は小さく呟く。
「立ち止まっていても仕方ない」
その視線が、一瞬だけ窓へ向く。
「例えここが箱の中だったとしても」
「え?」
「……いや、なんでもない」
香月先輩はすぐに笑みを作って首を左右に振る。
「ありがとう、岩倉君。少し元気が出たよ」
「なら良かったです」
「会長なのに情けない姿を見せてしまったね」
「たまには、そういう日もあると思います」
「優しいな、君は」
そう言って笑う香月先輩の色は、多彩ではなく落ち着いた色へと戻っていた。
その後、 話題は自然と中間考査の方へ移る。
「勉強の方は大丈夫なのかい?」
「……多分」
香月先輩が苦笑した。
「今の間で察してしまったよ」
「努力はします」
「君は地頭は悪くないんだ。きちんとやれば結果は出る」
親に言われるより、この人に言われる方が妙に効く。
「……頑張ります」
「ああ、それがいい」
時計を見ると、もう帰る時間だった。珈琲を飲み終え、 俺は片付けを済ませ席から立つ。
「それじゃ、お疲れ様でした」
鞄を肩へ掛け、部室を出ようとすると、すぐに声が掛かった。
「ああ、待ってくれ」
香月先輩の声に振り返る。
いつの間にか、彼女はすぐ近くまで来ていた。
その距離に、心臓が跳ねる。
香月先輩は、真っ直ぐ俺の目を覗き込んだ。
虹彩が揺れている。
複数の色が混ざっていた。
決意。
反抗。
恐怖。
高揚。
理解不能な色。
「私は」
香月先輩が、静かに言う。
「思い通りになるつもりはない」
その声は、今まで聞いたどの声より低かった。
「箱の中の猫であり続けるつもりもない」
香月先輩の瞳が、ほんの少しだけ細められる。
「いつか必ず、この箱から脱出してみせるよ」
その瞬間。
俺はなぜか、自分という存在が見透かされたような感覚を覚えていた。




