プルチックの瞳①
全くもって非日常的な存在である観測者の存在に一歩近づけたとはいえ、日常に何かしら劇的な変化が起きるわけでもなく、日々は淡々と過ぎていった。
気がつけば、あっという間に四月も終わり、五月になっていた。
体力テストや開校記念日といった学校行事を終え、中間考査を翌週に控えた日の昼休み。
俺は購買でパンを買い、教室に戻って昼食を摂ろうと、校舎内を歩いていた。
一年の教室がある三階への階段を登ろうとしていた矢先、ばったりと朝山先輩と遭遇する。
「あれー、岩倉君だー。やほー。これからお昼かな?」
声を掛けて来た朝山先輩の手には、同じ購買で買ったと思われるパン数個と飲み物があった。
俺は先輩に一度頭を下げた後、言葉を返す。
「はい、これから教室に戻って、お昼にしようかと」
「そっかそっかー。もし他に約束がなければ、一緒に食べない? ちょーっと、話したい事もあるし」
先輩の誘いを、無下に断ることもできない。
それに、朝山先輩が話したい事というのが何なのかも気になった。
俺は朝山先輩の誘いに頷いて答えると、その後に付いていく事にした。
辿り着いた先は、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、その横に位置する屋外ベンチだった。
朝山先輩はベンチに腰かけ、その隣に腰かけるよう、ポンポンとベンチを叩いて俺に促してくる。
誘われるがまま、俺は朝山先輩の隣に腰かけた。
「えっとね、実はお昼一緒に食べようって言うのは口実なんだ。私ね、ずっと前から岩倉君のこと……」
「え?」
「なーんて、冗談! ここを進んだ先の校舎裏ってねー、人が来ないからたまに告白する場所とかになってたりするんだよねー」
悪戯な笑みでニコニコしたまま、朝山先輩は手に持ったメロンパンの袋を開け始める。
最初こそかなりドギマギとさせられたが、朝山先輩とのこういったやり取りにも、少しずつ耐性がついてきたように思う。
俺は「そうなんですね」と返事をしながら、購入したコロッケパンの袋を開けて、それに噛り付いた。
ふと、気づいた。朝山先輩が脇に起いたパンの種類は全て菓子パンだった。
そして、持っている飲み物は紙パックのイチゴ牛乳。
俺はその組み合わせを見ているだけで、胸焼けしてくるように感じた。
「ん? どうしたの?」
「あー、その……朝山先輩は甘いものが好きですよね」
「うん、大好きだよー」
満面の笑みを見せながら、朝山先輩がメロンパンを口にする。
あんまり人の食べている姿をジロジロと見るのは悪いと思いつつも、嬉しそうにパンを食べる朝山先輩の姿が小動物のようで可愛らしく、少しの間だけ目が離せなかった。
そんなだから、勘違いされてしまったようだ。
朝山先輩は俺の目を見て首を傾げた後、手に持ったメロンパンを俺の口元に寄せてきた。
「一口、食べたいのかな?」
「え、いや、そういう訳では……」
「遠慮しなくて良いよー。あ、もしかして、私が口付けたから嫌なのー?」
「いや、そんな事はないんですが……」
「じゃあほら、ガブっといっちゃって?」
そう言われても、困った。
どうしたら良いのだろうか。
ガブっといっちゃって良いのだろうか。
いや待て、しかし、それは……。
「もうー、岩倉君って、本当可愛いよねー」
そう言って、俺に差し出していたメロンパンを自分の口元に戻した朝山先輩は、再びそれを口に入れて咀嚼する。
どうやら朝山先輩は、また俺の反応を見て楽しんでいたようだ。
耐性がついてきたと思っていたのだが……。
どうやらそれは、俺の勘違いだったらしい。
この魔性の女め……と心の中で呟いたのが、先輩に対する俺のせめてもの反抗だった。
「それで話なんだけどねー、小夜子の様子がちょっと変だなーって思ってるの」
人しきり俺の反応を楽しんで、満足したらしい。朝山先輩は、本題の方に話題を転換させてきた。
香月先輩の様子が変というのは、どういうことだろうか。
俺が香月先輩と最後に会ったのは、先週の金曜日。万物研究会の部室だ。
その時には、特にそんな感想は抱かなかったのだが。
「変っていうのは、どういう感じにですか?」
「昨日の日曜日にね、小夜子とまた買い物に出かけたんだけど、なんか……ずっと心ここにあらずって感じでね。元気もないし、いつもと違う様子だったからどうしたのーって聞いたんだけど、何でもないって答えるだけなんだよね。何でもない筈、ないと思うんだけどなー」
俺より香月先輩との付き合いが長い朝山先輩がそう感じたのであれば、事実そうなのかもしれない。
「でねー、何か悩み事でもあるのかーって、岩倉君からも聞いてみてもらえないかな?」
期待の眼差しを俺に向ける朝山先輩だが、香月先輩が本当に何か悩み事のようなものを抱えていたとして、彼女にさえ話さない事を俺になんか話すだろうか。
「良いですけど、何も聞けないと思いますよ」
「えー、そうかなー? 私は岩倉君になら、小夜子は話しちゃうと思うなー」
何とも、自信あり気な言い回しだった。
その自信の根拠が、俺には分からない。
「何で、そう思うんですか?」
「だってねー、岩倉君って凄く優しい目をしてるんだもん。そういう目をしている人には何でも話したくなっちゃうもんなんだよ、女の子は」
そう言って、笑顔を見せる朝山先輩。
俺はその顔を、照れくさくて直視する事が出来なかった。




