(物語の外側) - 告白
万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。
声までは聞こえない。
そもそも、聞く気もなかった。
ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。
気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。
それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。
貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。
そんなことを、また考えてしまった。
何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。
以前の私は、それが怖かった。
他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。
あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。
こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。
三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。
私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。
そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。
もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。
その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。
次はいつ、私を見てくれるのだろう。
そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。
六月。
梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。
校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。
地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。
部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。
頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。
私は少しだけ足を速めた。
部室棟の中へ入り、万物研究会の部室へ向かう。
扉を開くと、窓際で珈琲を飲んでいる小夜子先輩の姿があった。
小夜子先輩はカップを傾けたまま、無言で備品棚を指差す。
そこには、淹れたばかりと思われる珈琲のサーバが、静かに湯気を燻らせていた。
軽く頭を下げ、私は自分のカップに珈琲を注ぐ。
そこへ砂糖とミルクをたっぷり投入した。
椅子に腰掛けてから、岩倉君に頼まれていた伝言を口にする。
「岩倉君、今日は家の用事で来られないそうです」
「そうか。では、今日は二人だね」
「妃那美先輩は、バイトですか?」
私の問いに、小夜子先輩は無言で頷いた。
そして、私の隣へ腰を下ろす。
しばらく、静かな時間が流れた。
部屋に響くのは、お互いが珈琲を啜る音だけ。
その沈黙を破ったのは、小夜子先輩だった。
「怜菜。君は考えたことはあるかい? 観測者に観測されていない間、私たちの存在は一体どこに在るのか、と」
それについては、考えたことがある。
「小夜子先輩はいま、私がここにいることを認識しています。私も、小夜子先輩がそこに存在していることを認識しています。でも……観測者のいる世界では、きっと私たちは存在していない」
私の答えに、小夜子先輩は満足そうに頷いた。
けれど、その表情はどこか寂しげにも見えた。
「そうだろうね。観測されていないこの時間、この場所にいる私たちは、きっと存在していない」
「観測された時だけ、私たちは向こう側の世界に存在出来る……小夜子先輩の言っていた、箱の中の猫というやつですね」
観測されなければ、私たちは存在しない。
その事実を想像すると、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。
「やはり、怜菜も思い至ったんだね。この世界の真相に」
この世界の真相。
それは――。
この世界が、小説の中なのではないかという可能性。
小説という媒体に触れた時、私はその考えへと辿り着いてしまった。
主人公の視点を通し、その考えや心情に触れながら文章を通して世界を観測する読者。
岩倉君の視点を通し、その顕在意識を読み取って世界を観測する観測者。
私と小夜子先輩が立てた仮説が、その可能性へと至る道筋になってしまった。
「では、その考えに至った私たちにしか出来ない話をしよう。この世界が小説の中なのだとしたら、それは一体どんな物語なんだと思う?」
「これは、私の仮説です」
「聞かせてくれ」
「この物語は、小夜子先輩が世界の真理へ辿り着くまでの過程を書いた物語なのではないでしょうか」
小夜子先輩は興味深そうに目を細めた。
「そう思った根拠は?」
「観測者は、明らかにこの万物研究会を観測している頻度が高いです。そして、その中心にいるのは小夜子先輩です。だから私は、観測者のいる世界では既に世界の真理が解明されていて……その過程を、小説として記録しているのではないかと思いました」
最後まで聞き終えた小夜子先輩は、ゆっくりと首を横に振る。
「違うな。その仮説は間違っている」
「なぜ、そう言い切れるんですか?」
「簡単な話さ。私は物語の中心人物ではないからだよ」
小夜子先輩は静かに笑う。
「私は、どこにでもいる夢見がちな女子高生に過ぎない。妃那美も、岩倉君もそうだ。多少特殊な性質は持っているが、説明不能なものではない」
そこで、小夜子先輩の視線が私へ向けられた。
「だが、君は違う」
「……私?」
「観測者の視線を感知する能力。それだけが、明らかに異質なんだ。説明がつかない。だから、この物語の中心にいるのは君だよ、怜菜。きっと、説明の出来ない特異な能力を持つ神崎怜菜という存在を観測するための物語なんだ」
言葉を返せなかった。
もしそれが本当なら。
観測者は、私を見るためにこの世界を観測していることになる。
胸の奥から、言葉に出来ない感情が込み上げてくる。
今すぐ、貴方の視線を感じたい。
この空白を埋めてほしい。
早く、私を見てほしい。
貴方の存在を、感じさせてほしい。
「それとね、この世界が小説の中なのだとしたら、私はこう考える。視点の制約なんてものは存在しない」
「え……なぜ、そう思うんですか?」
「簡単だよ。そんなものは演出だからさ」
小夜子先輩はカップを揺らしながら、静かに続ける。
「そもそも視点の制約なんてものは、悪魔の裁量でどうにでもなってしまう」
悪魔。
小夜子先輩は、時折そういう言い方をする。
この世界の全てを掌握し、運命すら決定づける存在。
神ではなく、悪魔。
作者。
「でも私は普段、岩倉君からしか二重の視線を感じ取りません。あの実験でも、視点には制約がある事が証明されたはずです」
「いいや、よく考えたらね、逆なんだよ」
「逆……?」
「あの実験が成功したからこそ、視点に制約など存在しない事が証明されたんだ」
小夜子先輩は、どこか愉快そうに笑った。
「過去も現在も未来も、私たちの運命すら掌握している存在が、視点の入れ替わりなんて些細な変化に気付かないはずがないだろう?」
反論出来なかった。
もし、この世界が本当に小説なのだとしたら。
悪魔と呼ばれた作者は、小夜子先輩が岩倉君を演じていた事すら知っていたことになる。
ならば――。
視点制約というルールそのものが、最初から存在していなかったのだとしたら。
私たちに、そう思い込ませるためだけの演出だったのだとしたら……。
「視点の制約が無いと思った時に、私はふと疑問に思った事があるんだ」
「……なんですか?」
小夜子先輩は、カップの中で揺れる黒い液体を見つめながら、静かに口を開いた。
「これまで私たちは、観測者は岩倉君の視点を通して世界を観測していると考えていた」
「はい」
「だからこそ、君は岩倉君を通して二重の視線を感じ取っていた。だが、視点の制約そのものが存在しないとするのなら……」
小夜子先輩の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
「悪魔や観測者が、君の視点を借りた場合はどうなる?」
「……え?」
その瞬間、胸の奥が嫌なほどざわついた。
「つまり……私が何を聞きたいのかというと、君は君自身の視線を通して、観測者の視線を感じ取る事は出来るのかい?」
心臓が大きく脈打つ。
呼吸が浅くなっているのが、自分でも分かった。
もし、小夜子先輩の言う通り、本当に視点の制約が存在しないのだとしたら。
もし観測者が、岩倉君ではなく私の視点から世界を観測していたのだとしたら。
私は、それを感知出来ない。
だって――。
自分自身へ視線を送ることなど、出来るはずがないのだから。
……いや、待って、違う。
その考えが脳裏を過ぎった瞬間、ある言葉が蘇る。
『つまり、《《人間の目は窓に反射した姿を視認できるようになっている》》けど』
岩倉君の声。
自分自身へ、視線を向ける方法。
私は立ち上がる。
逸る呼吸を押さえ込みながら、ゆっくりと部室の窓へ近づいていく。
気が付けば外はもう暗くなり、雨粒が窓を叩いていた。
窓ガラスには、部室の景色と共に、私自身の姿がぼんやりと映り込んでいる。
ごくりと、生唾を飲み込む。
そして私は、窓越しの自分を見つめた。
――その瞬間。
背筋が震えた。
見られている。
今、この瞬間。
確かに。
ずっと感じられなかったはずの、あの視線が。
「ああ……」
思わず声が漏れた。
「そこにいたんだ」
胸の奥から、抑えきれない感情が溢れ出してくる。
小夜子先輩が何かを言っていた気もする。
でも、もう耳に入らなかった。
視線。
観測。
存在。
ずっと失われていたそれを、私はいま確かに感じている。
それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥にあるのは、喜びだけではなかった。
どこか、酷く恐ろしい。
「……小夜子先輩」
「なんだい?」
「もし、観測者の視線が完全に消えてしまったら……それは、どういう意味になると思いますか」
小夜子先輩は少しだけ目を細めた。
まるで、その質問を待っていたかのように。
「簡単な話かもしれないね」
静かな声。
「物語が完結したんだよ」
その言葉に、胸が強く締め付けられた。
完結。
つまり観測者が、この世界をもう観測する必要が無くなったということ。
私たちの物語が、終わったということ。
「観測されなくなった私たちは、どうなるんでしょうか」
「さあね」
小夜子先輩は小さく笑った。
「存在しなくなるのか。それとも、誰にも観測されないまま、この世界だけが続いていくのか」
そして、窓越しの私を見ながら続ける。
「だが少なくとも、今この瞬間、君は確かに観測されている」
窓に映る私。
その向こう側。
ガラス越しに重なった世界のどこかに、貴方がいる。
私はゆっくりと窓へ手を伸ばした。
触れられない。
届かない。
それでも。
確かに、そこにいる。
「ねえ」
窓に映る自分へ語り掛ける。
その向こう側にいる貴方へ。
「私が岩倉君に言った言葉、覚えてる?」
鼓動が速い。
感情が混ざり合って、頭がうまく回らない。
「こうやって貴方の存在を認識すると、冷静ではいられなくなってしまう」
苦しい。怖い。嬉しい。切ない。楽しい。
「貴方の事を、もっと知りたい」
観測されない時間が、どれほど空虚だったのか。
今なら分かる。
「貴方の存在を認識できない間、私はずっと待ってた」
ずっと。
ずっと。
貴方を。
「男性? 女性? それとも、私たちとは全く違う存在?」
そんな事は、もうどうでも良かった。
「私は、貴方が好き」
視線を感じる。
存在を感じる。
私を見てくれている。
「私を見てくれる貴方が好き」
いつか本当に、この物語が終わってしまうのだとしても。
観測が終わり、全てが閉じてしまうのだとしても。
どうか。
「私という存在を……忘れないで」
<完>
この『プルチックの瞳』という作品は、私が「小説を書こう」と思い立ったとき、どうせなら自分の好きなものを思う存分に詰め込んでしまおう――そんな気持ちから生まれた物語です。
香月小夜子の研究は、私が幼い頃から考え続けている問い。
朝山妃那美の研究は、私自身の実体験から生まれたもの。
岩倉優雨の共感覚は、人間という存在の神秘に惹かれた私の興味そのもの。
そして、神崎怜菜という存在は、私が愛してやまないメタフィクションというジャンルへの憧れから生まれました。
この物語は、観測者である貴方がいて初めて成立します。
登場人物たちの言葉も、感情も、そして物語そのものも、貴方に読まれることで初めてそこに存在できる。
だからこそ、たった一人でも良いからこの物語を観測してもらいたい、そういう想いから小説の投稿を始めました。
だからこそ、最後まで見届けてくださったこの物語の観測者である貴方に、心から感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
彩珠那由正




