観測者①
誰かに見られている気がする。
自分たちの知らない場所から、何者かがこちらを覗いているような感覚。
そんな曖昧な不安に、ただ名前を与えただけ。
それだけのはずだった。
けれど、人は名前を与えたものを認識してしまう。
輪郭のないものに境界が生まれる。
境界を得たものは、少しずつ存在感を増していく。
そうして、いつの間にか誰もが口にするようになった。
観測者。
まるで最初からそこにいたかのように。
◇ ◇ ◇
「岩倉君、やほー」
部室の扉が開き、朝山先輩がいつもの調子で顔を覗かせる。
その明るい声を聞くだけで、部室の空気が少し柔らかくなるから不思議だった。
俺は軽く会釈を返す。
今日は俺が一番乗りだった。
部室には、まだ香月先輩も神崎も来ていない。
朝山先輩は学生鞄を椅子の横へ置くと、そのまま俺の正面へ腰を下ろした。
なぜか、じっとこちらを見てくる。
「……なんですか」
「二人きりだねーって」
ニコニコしている。
嫌な予感しかしない。
何度か話して分かったが、この人は人の反応を見て楽しむタイプだ。
しかも、かなり無自覚に。
「ねえねえ、岩倉君って好きな人いる?」
やっぱり来た。
なんでこの人はこう、会話の初手から距離が近いんだろう。
俺は少し考えてから口を開く。
「……定義次第じゃないですか」
「え?」
「恋愛感情と執着心って、案外区別つかないと思うので」
数秒、沈黙が下りた。
朝山先輩は目を丸くしている。
「え、なにそれ」
「聞いてきたの、先輩ですよね」
朝山先輩は吹き出すみたいに笑った。
「ほんと、高校生っぽくないよね」
高校生っぽくない。
その通りだと、自分でも思う。
俺が言葉を返す前に、再び部室の扉が開く。
そこに立っていたのは神崎だった。
その瞬間、神崎の動きが止まった。
俺を見るその瞳が、僅かに見開かれた。
まるで、誰を見ているのか分からなくなったみたいに。
「神崎さん、やほー」
「……あ、やほー」
いつも通り抑揚の薄い声。
だが、その視線だけは妙に落ち着かなかった。
神崎は俺に対して二度まばたきを繰り返した後、ゆっくり席へ着く。
事前に決めていた合図だった。
観測者が俺の中にいることを知らせる合図。
鼓動が少しだけ早まるのを感じた。
円卓を囲む形で、俺、神崎、朝山先輩の三人が向かい合った。
静寂。
二人とも、こちらを見ている。
何かを待っているような視線だった。
では、手筈通りに。
「なあ、神崎」
「……なに?」
「まだ、いるのか?」
一瞬だけ、神崎の瞳が揺れた。
「……うん」
小さく頷く。
「いる」
まだ見ている。
その事実に、喉の奥が妙に乾いた。
いる。
まだ。
観測は続いている。
だが、それはおかしい。
俺は席を立ち、窓際へ向かう。
そして、閉じていたカーテンを勢いよく開いた。
窓の外は曇り空だった。
雨が降りそうな灰色の空の下、校庭では陸上部が走っている。
窓ガラスに、俺たち三人の姿が映り込む。
その反射を見た瞬間、妙な違和感が走った。
窓に映る俺の表情が、ほんの少しだけ、自分の認識とズレて見えた気がした。
「……神崎」
振り返らないまま問いかける。
「まだいるか?」
「……まだ、いる」
……意味が分からなかった。
なぜだ。
なぜ、まだ観測が続いている?
窓越しに見える神崎の目は、さっきより強い動揺を映していた。
朝山先輩は何も言わない。
ただ、俺を観察している。
研究対象を見るみたいな目で。
「……訳が分からないな」
俺はゆっくり振り返る。
今度は窓越しではなく、直接、神崎の目を見た。
「まだ、いるか?」
「……はい」
神崎の返答が、ほんの少しだけ遅れた。
「まだ、います」
神崎は、俺を通して観測者を見ている。
俺は無意識に腕を組み、再び窓へ映る自分を見る。
そこに映っている顔は、見慣れているはずなのに、どこか他人みたいだった。
「なあ、観測者」
気付けば、そんな言葉が口から漏れていた。
「聞かせてくれ」
誰も答えない。
部室は静かなままだ。
なのに、確かに何かが、こちらを見ている感覚だけがあった。
俺は神崎の方へ歩み寄る。
息が触れそうな距離まで顔を近づけ、その虹彩を覗き込む。
神崎は逃げない。
ただ静かに、こちらを見返している。
「観測者がいなくなったら教えてくれ」
「……はい」
神崎の瞳には、俺が映っていた。
けれど……。
その視線の奥には、確かに別の誰かがいた。
なあ、観測者。
どうしてお前は、まだ気付かない?
何故、岩倉優雨という人間を演じている私を……。
まだ岩倉優雨だと思い込んでいる?
◇ ◇ ◇
耳に届いた、聞き慣れた通知音に目を開く。
意識の浮上と共に、ぼんやりとした暗闇が視界へ広がっていく。
部屋のカーテンは閉め切られており、外から差し込む光はほとんどない。
薄暗い室内の中で、唯一スマートフォンの液晶画面だけが淡く発光していた。
体を起こそうとすると、長時間同じ姿勢でいたせいか、背中や肩に鈍い痛みが走った。
寝落ちする直前まで、色々と考え込んでいた事を思い出す。
観測者。
視点。
神崎の仮説。
香月先輩の考察。
そして――今日行われている実験のこと。
スマートフォンの画面には、新たなメッセージが一件届いている事を知らせる通知が表示されていた。
俺は暗闇の中で手を伸ばし、スマートフォンを手に取る。
まだ完全に覚醒しきっていない頭のまま、届いたメッセージを開いた。
【神崎怜菜:実験終了。結果の詳細は、また後日】
短い文章。
けれど、その文面を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
俺はベッドから上半身を起こし、自室の照明を点灯する。
突然明るくなった視界に思わず目を細めながら、時刻を確認した。
十六時を少し回ったところだった。
窓の外は、既に夕方の色を帯び始めている。
今日は午前中で学校を早退し、この時間までずっと自室へ引きこもっていた。
というのも、神崎から届いたメッセージにも書かれていた実験を遂行するためだった。
内容自体は、極めて単純なもの。
俺の意識がない状態で、別の誰かが岩倉優雨を演じた場合、観測者がどういった反応を示すのか。
それを確認するための実験だった。
睡眠時など、俺自身が視界を閉ざしている間にも観測者が俺の視点を利用し続けているとは、正直考えにくい。
もし本当に観測者が俺の視点を借りているのだとしたら、それはつまり俺と視界を共有しているという事になる。
そして、そこには何らかの目的が存在しているはずだった。
観測者は、ただ意味もなく世界を眺めている訳ではない。
俺という存在を通し、この世界を観測する理由がある。
目的があるのであれば、暗闇しか映らない閉ざされた視界を延々と眺め続けるとは思えなかった。
そんなものは、あまりにも非効率だ。
だからこそ、神崎の言っていた岩倉優雨の視点でなければならないという制約が本当に存在するのだとしたら――。
そこを逆手に取れるのではないか。
俺が眠り、代わりに香月先輩が岩倉優雨として振る舞った時、観測者はそれを俺だと誤認するのか。
そんな思いつきから始まった実験だった。
もし実験が成功していなければ、話は単純だ。
観測者は、何らかの手段で俺という存在そのものを認識している事になる。
だが逆に、観測者の視点が香月先輩へ移動していたのだとしたら――。
その時は、前提そのものが大きく覆る。
そこまで考えたところで、俺は小さく息を吐いた。
どちらにせよ、詳細を聞いてから皆で話し合った方が良いだろう。
今の時点で結論を出せる話ではない。
俺は大きく欠伸をしながら、神崎へ短く返信を送る。
【了解】
送信ボタンを押した後、俺はスマートフォンの画面をぼんやりと見つめた。
通知欄に表示された神崎の名前。
「はは……まじかよ」
思わず苦笑が漏れる。
実験の結果が気になったからだろうか。
それとも、別の理由なのだろうか。
自分でも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
今この瞬間、俺は無性に神崎の顔が見たかった。
その事実に気付いてしまい、俺は小さく頭を掻いた。




