神崎怜菜の研究④
「……来た」
「ああ、そうか」
研究会の部室を後にした俺と神崎は、肩を並べて帰宅の徒についていた。
いま神崎は来たと言ったので、どうやら観測者という存在が、また俺の視点を借りに来たらしい。
ついさっきいなくなったと思ったら、数時間の内にまた現れる。
神出鬼没な奴だ。
結局、観測者についての話し合いを進めても、その正体について答えは出ないだろう。
俺たちにとって、観測者はその存在が異質過ぎる。
神崎はその正体を解明する事を目的としているが、それは容易ではないだろう。
そんな事を考えながら、夕日に染まる住宅街の道を神崎と歩き続ける。
このまま進み続ければ駅前へと到着し、そこで神崎とはお別れだ。
「なんで神崎は、観測者の視線を感じ取れるんだろうな?」
「それに関しては、思い当たる事はある」
「へえ、思い当たる事ってなんだ?」
「私は幼少期の頃から、人の視線というものに凄く敏感だったから。他者視線恐怖症って呼ばれている病気で、酷い時期には外出も出来ないほどだった」
それは、とても意外だと感じる告白だった。
俺の知っている神崎怜菜という人物に、そういう素振りはまるで見られなかったからだ。
中学生の頃は視線恐怖症とは思えないほどに、俺の事をジロジロと見たりしていたし、新入生代表挨拶や先ほどの発表も難なくこなすほど、寧ろ人の視線に恐れなど抱いていないという印象の方が強い。
「心理療法で少しずつ改善して、今ではもう完治しているけれど。多分、そういった経験からじゃないかなっていう推測。ちなみに完全に完治したのは、中学生の時に貴方……観測者の視線を感じた事が、キッカケになってる」
なぜ観測者の視線を感じた事が、完治のキッカケになるのだろうか。
その理由を、神崎は話してくれた。
「観測者の視線を感じたあの瞬間から、私は人に見られるという行為そのものに、恐怖心を抱かなくなった。異質な存在である観測者の視線に比べれば、普通の人間である他人の視線なんてどうってことないもの。そう思って視線恐怖症を克服できたことに関しては、観測者に感謝の気持ちさえある」
観測者の視線を感知している状態である神崎の目の色に、マイナスの感情ばかりが見られなかったのには、そう言った理由もあったのだろうか。
「変な奴だな。普通、よく分からない何かがこっちを見ているって分かったら、気味が悪いし怖いだけだろ」
「勿論、そういう感情が全くない訳じゃない……っていうのは前にも話した通り、岩倉君には分かっている事だと思うけど。それ以上に私は、観測者という存在についてもっと知りたいという興味や、その存在を感知できた喜びという感情の方が大きかった」
「それは、俺には持てそうにない感情だな」
「どうして?」
「その観測者とかいう奴は、許可なく勝手に俺の視点をカメラみたいに使ってるんだろ? そんなのまるで、俺を使って盗撮でもされているようで気分が悪い」
「盗撮って……ふふ」
ただ文句を言っただけのつもりだったのだが、神崎は何かが面白かったらしく、口元に手を当てて小さく笑った。
神崎がそうやって笑うのを俺は初めて見たので、少し驚いた。
「岩倉君は観測者の視線を感じるなんて、そんな非現実的な私の話を信じてくれるんだね」
「驚きはしたけどな。神崎が、そんな意味の分からない嘘を吐くような人間ではないって分かるくらいには、俺にも人を見る目があるって思ってるよ」
「正直、岩倉君に観測者の事を話すのには、抵抗があった。絶対に混乱させてしまうと思ったし、頭のおかしい奴だと思われたら嫌だなって考えていたから。でも、そう思ってくれているのなら安心した」
頭のおかしい奴……とまで思っていないが、常日頃から変な奴だとは思っていたぞ、という言葉は口に出さず飲み込んでおく。
「神崎だって、俺の共感覚っていう現象を信じてくれているだろ?」
「信じない理由はない」
「俺だって、そうだよ。信じない理由はない」
「そう」
そんなやり取りをしている間に、駅前にある本屋の前へと到着した。
俺と神崎は、その場で足を止めた。
「それじゃあ、また」
「ああ、またな」
短い挨拶を済ませた後、俺と神崎は互いに背を向け、逆方向へと歩き始める。
別れ際、俺を見る神崎の虹彩には相変わらず多彩な感情の色が見えた。
だが、前のように、それを気味が悪いと感じる事はなかつた。
◇ ◇ ◇
さて、観測者とやらよ。
今もお前は、俺の視点を借りてこの世界を見ているのか?
何が目的で俺の視点を借りて、世界を観測しているのかは知らない。
だがまあ、別に良いさ。
ただ観測するだけなら、別にそれは許そう。
俺たちに何も危害を加える気がなく、ただ観測をしているだけなのだというのなら、俺の視点くらい貸してやる。
ただ、せめて俺のプライベートな時間くらいは、目を瞑っていてくれないか。
そうだな、せめて俺が消えてくれと願った時には、いなくなってくれないか。
なあ、聞いているか?
聞いているなら、返事くらいしてほしいもんだ。
◇ ◇ ◇
今になって思い返してみると、高校へ入学してからの日々は、俺にとって刺激的な日々の連続だったように思う。
究極の問いについて思考を重ね、世界の真理を解明する事を目的としている香月先輩。
幽体離脱を用い、宇宙の果てへの到達を目的としている朝山先輩。
観測者の視線を感じ取り、次元の研究によってその正体を明かす事を目的としている神崎。
この三人と出会い、研究会の仲間として過ごしていく日々に対して、素直な感想を述べるのであれば、楽しいの一言に尽きた。
そんな事を、俺は真っ暗の天井を見つめたまま、自室のベッドの上で考えていた。
就寝前というのは、いつも色々と思考を重ねてしまうものだ。
例えばそれは、香月先輩の研究である究極の問いと世界の真理について。
これに関しては、俺も何度か考えはしたが、思考の果てはいつも袋小路だ。
しかし、こうやって答えのない問いに思考を向ける感覚が、俺は嫌いではなくなっていた。
寧ろ、ワクワクとした気持ちさえ沸いてくる。
それは、香月先輩も同じだろうか。
だとしたら、やはり俺はあの人からかなり影響を受けているのだろう。
例えばそれは、朝山先輩の研究である幽体離脱と宇宙の果てについて。
幽体離脱という体験は正直、俺には怖いと感じてしまう。
だが空を飛ぶ感覚というのは、想像すると楽しそうだ。
もし俺が幽体離脱をしたのなら、自由気ままに空を飛び回るだろう。
宇宙の果てがどうなっているのか知りたい気持ちはあるが、恐怖心からそれを目指せそうにはない。
普段はフワフワとした印象だが、俺には出来ないと想像するだけで諦めてしまう、果てへの到達を成そうとする朝山先輩の強さには驚かされている。
例えばそれは、神崎の研究である次元と観測者について。
神崎が俺たちとは違う次元の存在であると推測している、観測者という存在。
今も俺が見ているものを、観測者も見ているのだろうか。
いや、見ていないだろう。
こんな何もない天井を見ていても、そこから得られるものなど何もない。
それにあと数分もすれば、俺は瞼を閉じて眠りにつくことになる。
瞼の裏を見続けるなど、天井のシミを見る以上に退屈な行為だろう。
……さて、準備はもう全て整えてある。
後はもう、眠りにつくだけだった。
俺はゆっくりと、瞼を閉じる。
そして、やがてやってきた睡魔に身を任せ、俺は眠りへとついた。
実験が成功する事を祈りながら。




