ニンフィとの再会
薄い曇天が館の屋根を覆っていた。
僕とヴィオラは、門の前で立ち止まり、ひび割れた噴水と枯れた庭を見上げた。かつては華やかだった貴族の館。いまは風の音ばかりが響いている。
「ここで間違いないのね?」
ヴィオラが低く問う。
「うん。スミスに調べてもらったんだ」
震える指先が、嫌な予感を語っていた。
館の扉を開けると、かすかな香水と、鉄の匂いが混ざった空気が流れてきた。
玄関には女中が一人、青ざめた顔で立っていた。
「ニンフィに会いに来たの。伝えてちょうだい」
ヴィオラが告げると、女中は怯えたように視線を逸らし、奥へと消えた。
やがて、階段の上から現れたのは、年老いた貴族シャルルだった。
かつて社交界の華と呼ばれた男の面影はなく、髪は乱れ、目の下には深い隈が刻まれていた。
「……君たちは、誰だ」
「ニンフィの友人。サーカスの仲間よ」
ヴィオラの声は硬く、冷たかった。
「サーカスの....あのピピンとヴィオラか。
悪いがニンフィは、いま屋敷で働いている」
シャルルは煙草を咥え、紫煙を吐いた。
「ニンフィを買取にきたの」
ヴィオラの声がわずかに震えた。
沈黙ののち、背後から鈍い音が響いた。
階段の陰から、白いドレスの裾が揺れる。
——ニンフィだった。
頬はやせこけ、かつての無邪気な笑顔は跡形もない。
そして、その腹は大きく膨らんでいた。痩せた体のせいで大きなお腹が特に目立つ。
「ニンフィ……」
ピピンの声が、かすれた。
彼女は小さく頷いた。
「来てくれたのね……でも、もういいの。私は、ここで……」
「ニンフィ、助けに来たの」
ヴィオラが前に出た。
その瞬間、2階の奥から、甲高い声が響いた。
紅の衣を纏った女——シャルルの妻、メアリだった。
「ニンフィを買い取るだって?お前たちにそんな金があるのかい?」
彼女は階段を踏み鳴らしながら降りてきた。メアリがニンフィを睨みつける。
「恥を知りなさい。初めから子を産むつもりで我が家に忍び込んだ泥棒猫め!お前のようなものは……」
「やめろ、メアリ」
シャルルが遮った。
だが、その目には恨めたさがあった。
シャルルはニンフィに手をつけていたのだ。
ニンフィは、ただ下を向いていた。
「……赤ちゃんは、もうすぐ生まれるの。だから、逃げられないの」
「子供のことも考えて。ニンフィ一緒に行こう」
ピピンが言う。
メアリは、一歩進み出て懐から封筒を取り出した。
「ニンフィの労働契約書。シャルル、売ってしまいましょ。こんな寄生虫みたいな女」
シャルルの顔が引きつる。
「ニンフィ——」
シャルルはまだニンフィに未練があるようだった。しかし、ヴィオラが大金を積むと渋々契約書をヴィオラに渡した。
ヴィオラは契約書を目の前で燃やしてみせた。
青白い炎が、契約の印章を焦がしていく。
「これで、彼女は自由よ」
「勝手にすればいい——!」
メアリが叫ぶが、ヴィオラの目は赤く光っていた。
「これ以上、ニンフィを侮辱するのは許さない」
その目に圧されたのか、メアリは口を開けたまま固まった。
僕とヴィオラとニンフィは館を出た。
僕は懐から小袋を取り出し、ニンフィの手の上に置いた。
「これは生活費。子育てに充分なお金も渡すね。部屋も用意してある。もう安心だよ」
静寂。
ニンフィは、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「サーカスの日々を僕らが生き抜けたのはニンフィのおかげだから」
涙が頬を伝い、唇が震える。
「……ありがとう。私、もう少しだけ生きてみる」
ヴィオラは頷いた。
「生きて。あなたの子と、一緒に」
僕とヴィオラは、ニンフィを連れて静かな夕暮れの街を歩いていた。
大きなお腹を抱えたニンフィの小さな足取りは少しおぼつかない。
それでも、ヴィオラがそっと手を取って支えると、ニンフィは安心したように笑った。
「ここが君の部屋だよ」
僕が指さした先は、バンデラの家の近くの石造りのアパートメント。窓からは柔らかな灯りがこぼれ、すでに人の気配があった。
扉を開けると、そこにいたのは看護士のバンデラとリーネだった。
二人とも穏やかな笑みを浮かべて、ニンフィを迎えてくれる。
「おぉ……バンデラだ。よろしくな。ずいぶん痩せているな。でも、顔がしっかりしてる。大丈夫そうだ」
リーネが優しくお辞儀する。
「ニンフィ、よろしくね」
部屋は清潔な匂いがした。
「シーツは新しいのに替えておいたよ。服も、明日いくつか見繕ってあげる」
リーネが手際よく荷物を整えながら言う。柔らかな手つきで毛布を整え、ベッドの端を軽くたたいた。
ニンフィは小さな声で「ありがとう」と言って、ぎこちなく頭を下げる。
その姿を見て、ヴィオラがそっと笑った。
「大丈夫。ここなら、安心して眠れるわ」
僕は少し胸が熱くなった。
ここがニンフィが“居場所”になったらいい。
バンデラが僕に向かって頷く。
「近くに俺たちがいるから、たまに様子をみにくるよ」
部屋の中に、やわらかな温かさが広がっていく。
「……救えたのかな」
ヴィオラは目を伏せる。
「さあ。でも、あの子がもう一度、自分の人生を生きようと思えたなら、それで十分」
僕は、黙ってうなずいた。




