バンデラとリーネ
昼過ぎ、僕はヴィオラとウチャと別れて、ひとりで宿を出た。
ヴィオラは部屋で、例の「赤い目巨人の歴史書」を読むつもりらしい。あの人、見かけによらず読書家なのかと思ったけど……実は難しい言葉はそんなに得意じゃないんだって。だから、ウチャが隣で読んであげてた。うん、意外といいコンビ。
さて、と。
僕の手には、一枚の紙切れ。そこにはバンデラの住所が書かれている。これまで地図や住所で誰かを訪ねたことなんて一度もなかったから、もう道行きの途中から戸惑いの連続だ。
「ええと、こっちで合ってたっけ……?」
曲がり角のたびに不安になる。何度か立ち止まって、住所を確認して、また迷って。
「……まずい。迷った」
通りすがりの人に聞いてみる。
「すみません、この辺りに看護士のバンデラの家はありますか…?」
「ああ、それならこの道をまっすぐ行って、右に曲がると…あ、もうちょっと奥かもしれん」
「これ、まるで迷路みたいだ…」
街のあちこちから、かつて貼られていたジェッピのポスターやドワラゴン窃盗団の指名手配書が取り除かれていて、その静けさに少しだけ安心感を覚えた。あの喧騒はもう、過去のものだ。
そんなこんなで、ようやく夕暮れどきに目的の家に辿り着いた。日が傾いて、街全体が橙色に染まっている。
玄関の前で、そっとノックをする。すると、部屋の中から、かすかに笛の音が聞こえてきた。
その音色はどこか懐かしくて、悲しげで、美しかった。
間もなく玄関が開いて、懐かしい顔が現れた。
「なんだ、ピピンか。よく来たな。そういえば、前に住所のメモを渡していたよな」
バンデラは以前と変わらぬ豪快な声で笑った。
「だいぶ迷っちゃったけどね」
「まあ、この辺りは細い道が多いからな。歩き回って疲れただろう。さあ、中へどうぞ。リーネもいるんだ」
リビングに通されると、バンデラは急に真面目な表情になって、深く頭を下げた。
「……ありがとう、俺の代わりに立ち向かってくれて」
その声には、感謝と、悔しさが混じっていた。彼の拳は、まだ強く握られていた。
「でも、俺は……リーネを守れなかった」
唇を噛んで、長く息を吐くバンデラ。その隣で、リーネがうつむき、彼の袖をぎゅっと握りしめていた。目は赤く腫れていて、今にも涙がこぼれそうだった。
「……ごめんなさい」
リーネの小さな声は、風に消えそうなほど弱かった。
「ジェッピの言葉を信じた私が間違ってた。あの人の教えが正しいと思い込んで……バンデラのことを傷つけてしまった……」
ぽたり、と涙が床に落ちる。
「リーネ……」
バンデラは何か言いかけたけど、言葉を見つけられずに、ただそっと彼女の肩に手を置いた。沈黙がふたりを包み込む。
僕は黙ってその様子を見ていた。
バンデラの肉体強化のアイディアに、僕はたくさん助けられてきた。でも、今の彼のように、何もできずにうなだれる力に、僕はなれるんだろうか? そんな強さが、僕にあるんだろうか?
……僕には、わからなかった。
「うまくいくことばかりじゃないさ。僕なんて不器用で。あ、そういえば……さっき笛を吹いていなかった? とても美しかったよ」
そう言って、僕はポシェッタから壊れた笛を取り出した。
「実は……今、練習中なんだ。この笛」
リーネが驚いたように顔を上げる。
「……笛?」
「うん。楽譜を見ながら練習してるんだけど、なかなか思うように吹けなくてさ」
僕は、懐から古びた楽譜を差し出した。リーネはそれを手に取り、じっと見つめる。
「……古い楽譜ね。でも、素敵。あら? この曲はもしかして?」
ふと微笑むと、彼女は自分の笛を手に取り、静かに吹き始めた。
その音色は、まるで風のように流れ、やさしく、どこか懐かしい響きがあった。
初めて見る楽譜というわけでもないみたいだ。
迷いも澱みもなく、ただただ美しいメロディが奏でられていく。
「この曲は……!」
そう、ヴィオラがよく歌っていたわらべ歌だった。そうだったんだ。
バンデラもじっと耳を傾けていた。少しずつ、その表情が和らいでいくのがわかった。
曲が終わると、リーネは笛を口から離して、ぽつりと言った。
「やっぱりリノスの歌だったのね。子供の頃、おばあちゃんがよく歌ってくれたわ」
バンデラもうなずいた。
「心が落ち着く曲だ」
「僕もおねぇちゃんがよく歌っていたよ。あの曲だったんだ」
僕も、自分の笛で吹いてみることにした。
ボ……ボピゲェ。
音はぎこちなく、どうしようもなく外れてしまった。
「あははは。リーネみたいにうまくいかないや」
でも、リーネが少しだけ、笑顔になった気がした。
「練習すれば大丈夫よ」
バンデラも笑っていた。
「耳がキーンとしたぜ。ははは。ピピン、練習頑張れよ」
「笛のことなら、私にまかせて。また教えてあげる」
リーネの声は、やさしく、やわらかかった。
その瞬間、バンデラはふっと目を伏せて、胸の奥で息を吐いた。
「……いつでも来てくれ」
その顔は、ほんの少しだけど、確かに和らいでいた。




