第71話 信念の男
ディーターの声明は王国中に広まった。
「精髄研究は国家の未来である。宰相の辞任は正しい方法の敗北ではなく、正しい方法を実行する者がいなかっただけだ。リーゼ・ヴェーバーの鑑定眼こそが、代償なき賢者の石を完成させる唯一の鍵である」
カイが追跡している。騎士団が逮捕状を準備している。だがディーターは元秘密工作部門の人間だ。追跡を巻く術に長けている。
エルヴィラからの続報。「王都の貴族連合が動き始めた。『精髄属性保持者の国家登録制度』を推進。リーゼの自由な活動が制限される可能性」。
マティアスが地図を広げた。カイの暗号メモが同封されていた。リーゼが暗号を読む。カイ独自の符丁。数字の並びを街の名前に変換し、動詞を逆さにする。
「ディーターの足取りがあります。エルツ施設を出た後、北の峠を越えて——ここで馬を替えている」
リーゼが地図の上に指を走らせた。
「三日前に峠の宿場。二日前に商人の街道。昨日の時点で、グリュンタールまで二日の距離です」
「こちらに向かっておるのか」
「はい。カイさんの暗号の末尾に『鷹、南へ』とあります。鷹はディーターの符丁。南はグリュンタール方面」
マティアスが地図を指で叩いた。
「ディーターは王都に向かうか、グリュンタールに向かうか。どちらじゃ」
「グリュンタールだと思います」
「なぜ」
「ディーターの目的は私の鑑定眼です。王都に行っても私はいない。ここに来る方が確実」
「だが逮捕状が出ておる」
「辺境の駐在所では拘束の法的根拠が弱い。ディーターはそれを知っている。宮廷の工作員だった男です」
マティアスが椅子の背にもたれた。左手をテーブルの上に置いた。リーゼの治療の後、指が微かに動くようになった左手。
「ならば待つか。逃げるよりも、受けて立つ方がお前さんらしい」
「逃げても意味がありません。ディーターの声明が広まった以上、私の鑑定眼を狙う人間は彼一人ではなくなる。ここで対峙して、第三の方法の優位を示す方が防御になります」
ユーリが鍛冶場から顔を出した。
「増幅器の予備を打つ。本番用と予備。二つ要るだろう」
「お願いします」
ユーリは何も言わずに鍛冶場に戻った。炉の火を上げる音が聞こえた。
三日後。リーゼの予想通り、ディーターがグリュンタールに現れた。
交易広場。旅商人の姿。穏やかな笑顔。あの日と同じ姿で、街の真ん中に立っていた。
「お久しぶりです、ヴェーバーさん」
「ディーターさん。逮捕状が出ています」
「王都の管轄でしょう。ここは辺境です。駐在所の調査官は——ああ、今は空席でしたか」
カイが王都にいる。駐在所に正規の調査官がいない。ディーターはそれを計算に入れていた。
「直接お話がしたくて来ました。暴力を振るうつもりはない。ただ提案を」
「提案は聞きます。ただし——」
リーゼが覚醒した鑑定眼でディーターを見た。衣服、持ち物、手。全てから精髄研究の痕跡。装置の金属片。薬品の微粒子。そしてディーターの手には侵食がない。
「ディーターさん。あなたの手に侵食がない。実験の代償を、誰が払ったんですか」
ディーターの物柔らかな表情が、初めて曇った。
ディーターが語った。
「エルツ施設で実験を続けた。術者は私ではない。志願した錬金術師たちだ。全員が代償を知った上で志願した」
「何人ですか」
「六人。うち三人が侵食を負った。一人が死亡した」
リーゼの指先が冷たくなった。一人が死んでいる。
「知った上で志願した、とあなたは言う。でも死亡した術者の同意書を、私に触れさせてください」
「同意書?」
「あなたが『志願した』と言うのであれば、同意書にそう書かれているはず。私の鑑定眼で確認します」
ディーターが鞄から紙束を取り出した。六人分の同意書。リーゼが手袋を外し、一枚目に触れた。
署名。筆圧は安定。本人の意志で書いている。嘘ではない。
二枚目。安定。三枚目。安定。四枚目——。
四枚目の署名の筆圧が異常に高い。ペンが紙に食い込んでいる。極度の緊張状態。あるいは脅迫の下で書かれた署名。
五枚目。死亡した術者の同意書。筆圧が不規則。書き直した痕跡が二箇所。最初は拒否の文言が書かれ、消されて同意に変えられている。
「ディーターさん。五枚目の同意書は書き直されています。最初は拒否していた。それが同意に変わった。何があったんですか」
ディーターの表情が硬くなった。
「……彼には借金があった。研究に参加すれば免除すると伝えた」
「借金の免除と引き換えに、命の危険がある実験に参加させた。それは志願ではありません。経済的な強制です」
「彼は同意した」
「同意しなければ借金が残った。選択肢がない状態で『はい』と言わせても、それは選択ではない」
マティアスの工房前。街の人々が遠巻きに見ている。ハンスも。パン屋のおかみも。ユーリが鍛冶場の前で腕を組んでいる。
ディーターが声を上げた。
「ならばどうする。飢饉が来れば何万人が死ぬ。三人と何万人のどちらを選ぶ」
「選ぶのは、あなたではない」
リーゼの声は静かだった。だが広場全体に届いた。
「代償を払うのは、自分で選んだ人だけです。十分な情報を与えられ、強制も脅迫もない状態で、それでも『はい』と言った人だけが引き受ける。それが私の答えです」
「きれいごとだ」
「きれいごとです。でも汚い現実を繰り返すより、きれいごとを実現する方が建設的です」
ディーターが引かなかった。
「ならば証明しろ。お前の第三の方法で、代償なしに大地を救えるかどうか。明日、この街の汚染地区で。俺の前で。できなければ、俺の方法が正しい」
挑発。だがリーゼには断る理由がなかった。第三の方法は理論上完成している。覚醒も済んでいる。ユーリの器具もある。
「受けます」




