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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
錬金術師の選択

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第70話 覚醒

マティアスの工房の地下。転送路の先にある、かつて封印されていた部屋。


 リーゼ、マティアス、ユーリの三人。父ヘルマンの実験日誌が作業台に開かれている。千年前の拓本が壁に貼られている。全ての記録が、この部屋に集まった。


「始めるぞ」


 マティアスの声が静かだった。


 リーゼは最終型増幅器を装着した。肩まで伸びる金属のネットワークが全身を包む。ユーリの最高傑作。


「四段階。読む。返す。安定させる。大地に返す。第四段階で精髄属性が完全に覚醒する。失敗すれば暴走。暴走すれば——」


「失敗しません」


「根拠は」


「三つの断片と一行が揃っている。ユーリさんの器具がある。マティアスさんがいる。根拠は十分です」


 リーゼは部屋の中央に立った。石の床に膝をつき、両手を床に当てた。


 第一段階。読む。


 鑑定眼を開いた。石の床の下に広がる大地の精髄。グリュンタールの地面。その下の岩盤。さらに下の地下水脈。全てに精髄が流れている。微弱だが確かに。世界のあらゆる物質に精髄は宿っている。


 第二段階。返す。


 読んだ精髄の流れに沿って、自分の中の精髄を送り返す。指先から石の床を通して大地へ。父ヘルマンの暗号が示した手順。流れに逆らわず、同じ方向に。


 指先が光った。増幅器が共鳴する。金属全体が薄く発光し、ユーリの鍛造の記憶が器具を通してリーゼの精髄と同期した。


 第三段階。安定させる。


 送り返した精髄が大地の精髄と合流し、ループを形成する。このループが安定しなければ暴走する。マティアスの二十年の理論。均衡点を鑑定眼で読み続けながら保つ。


 十秒。二十秒。三十秒。前回の倍以上。ユーリの器具が負荷を全身に分散している。指先だけでなく、腕全体、肩、胸まで微かな熱が走る。だが集中していない。薄く広く。


 第四段階。大地に返す。


 ループの中の精髄を、大地の方向に開放する。自分の中に溜めるのではなく、大地に返す。借りたものを返す。千年前の一行の核心。


 世界が変わった。


 鑑定眼が変容した。物質の組成ではなく、物質に宿る精髄の流れそのものが見える。石の床が光っている。壁が光っている。空気が光っている。全ての物質の中を、精髄が川のように流れている。


 マティアスの身体が光っている。老人の身体の中を、精髄が静かに脈打っている。左手だけが暗い。侵食で精髄の流れが途絶えている部分。


 ユーリの身体が光っている。鍛冶師の手が最も明るい。千回万回と金属を叩いた手に、精髄が宿っている。


 自分の身体が光っている。全身に精髄が流れている。右腕の焼痕の部分は光が弱い。侵食の痕跡。だが器具を通して、光が分散され、全身が均等に照らされている。


 覚醒した。


 世界が違って見える。石の床の一粒一粒に精髄が宿っている。空気の中を精髄が漂っている。この部屋の全ての物質が、それぞれの声で語りかけてくる。


 ユーリが息を呑む音が聞こえた。


「光ってる。お前の全身が」


 ユーリの声が遠い。覚醒した感覚の中で、通常の音が薄く感じられる。だがユーリの手の精髄だけは鮮明に見える。千回万回と金属を叩いた手。精髄が最も強く宿っている場所。


 マティアスが一歩近づいた。覚醒した目で見ると、老人の身体の中の精髄が見える。左手が暗い。侵食で流れが途絶えている。右手は明るい。まだ生きている。


「成功じゃ。完全覚醒」


 マティアスの声も遠い。だが言葉の意味は届いた。


 覚醒した。精髄属性が完全に開いた。父ヘルマンと同じ力。千年前の錬金術師と同じ力。だがリーゼは凍りついた。覚醒した目で、工房の地下の壁を見たとき。


 壁の中に、古い精髄灰の残留がある。グリュンタールの汚染の一部。だがこの残留は、地下工房から来たものではない。もっと古い。二十年前。


 マティアスの工房の地下に、二十年前の精髄灰。


「それは、おかしい」


 リーゼの声が部屋に響いた。


「マティアスさん。この壁に二十年前の精髄灰があります。地下工房のものではない。この部屋の中で実験が行われた痕跡です」


 マティアスが目を閉じた。


「あなたも、実験していたんですか。この工房で」


 長い沈黙。部屋の中に覚醒した鑑定眼の光が満ちている。全てが見える世界で、マティアスの秘密が最後の一枚を剥がれた。


「わしもまた、代償を払っておった」


 マティアスが左手を見せた。動かない指。老齢のせいだとリーゼは思っていた。覚醒した鑑定眼で見ると、違う。左手の精髄の流れが途絶えている。侵食。精髄灰の蓄積。


「辺境に来てから、密かに実験を続けておった。第三の方法の理論を完成させるには、実証データが要る。術者がわしの他におらんかった。自分の身体で試すしかなかった」


「二十年間」


「二十年間。小規模な実験を繰り返した。左手が動かなくなるまで」


「なぜ言わなかったんですか」


「言えば、お前さんが止める。止められたくなかった。ヘルマンの死を無駄にしたくなかった」


 リーゼの覚醒した目で、マティアスの全身を読んだ。左手だけではない。左腕全体、左肩、左胸の一部にまで侵食が及んでいる。見た目には分からない。だが精髄の流れが弱っている。


「マティアスさん。左胸にも侵食が」


「知っておる。あと何年持つかは分からんが、わしの余命は——」


「第三の方法を使います。今すぐ」


「リーゼ」


「覚醒したばかりです。でもできます。四段階。マティアスさんの侵食を、大地と分かつ」


 マティアスが口を開きかけ、閉じた。弟子の目を見ている。覚醒した鑑定眼が薄く光を帯びている。その光の強さに、老人が息を吐いた。


「やれるのか。覚醒してまだ一刻も経っておらんぞ」


「やります」


 リーゼはマティアスの左手を両手で包んだ。冷たい。精髄の流れが途絶えた手は体温が低い。覚醒した鑑定眼で精髄の流れを読む。侵食の範囲を特定する。左手の末端から肩にかけて、精髄灰が毛細血管のように枝分かれしている。二十年分の蓄積。


 精髄を流し込む。指先から、マティアスの手に。汚染された流れに沿って、清浄な精髄を送り返す。大地に返す。リーゼの指先が熱を持った。増幅器が微かに共鳴する。


 マティアスの左手が、淡く光った。精髄の流れが回復していく。完全ではない。だが途絶えていた流れが、細い糸のように繋がった。


「指が……動く」


 マティアスの左手の指が、二十年ぶりに曲がった。微かに。だが確かに。


「ありがとう」


 老人が小さく言った。声が震えていた。


 鍛冶場の入り口で、金属が落ちる音がした。ユーリだった。工具を足元に取り落としたまま、入り口の柱に肩を預けている。


「おい。爺さん。二十年って言ったか」


 マティアスが振り向いた。ユーリの顔は怒っていた。


「ユーリ——」


「増幅器を打ったのは俺だ。あんたの手の震えが鍛冶作業の後遺症だと思っていた。だから精密作業用の工具を作った。握りやすいように柄を削った」


 ユーリが一歩踏み込んだ。


「全部、侵食のせいだったのか。俺の器具があれば負荷を減らせた。なぜ黙っていた」


「お前さんの器具は別の目的で要った。リーゼのためにな」


「俺に言えば、両方作れた」


 マティアスが答えなかった。ユーリの拳が白くなっている。リーゼはユーリの肩に手を置いた。


「ユーリさん。マティアスさんの侵食は止まりました。完治はしていませんが、進行は止まっています」


 ユーリがリーゼの手を見た。治療の後、リーゼの指先がうっすらと赤い。代償。


「お前も無事じゃないだろう」


「指先が少し熱いだけです」


「嘘をつくな。指が赤い」


 リーゼは手を引っ込めた。ユーリは鍛冶場に戻りかけて、足を止めた。


「茶を淹れろ、爺さん。左手で」


 マティアスが茶を淹れた。三人分。右手で。左手は杯を持てるほどには回復していなかった。だがテーブルの上に置くことができた。二十年ぶりに。


 その夜。カイから暗号書簡。「ディーターがエルツ施設の装置を持って逃走。声明の余波で六人の志願者がディーターに合流。リーゼの鑑定眼を名指しした声明が、王都中に広まっている。急いでくれ」

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