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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
錬金術師の選択

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第68話 千年前の一行

五日目の朝。馬車の窓にグリュンタールの屋根が見えた。


 煙突からパン屋の煙が上がっている。ハンスの畑に麦の穂が揺れている。街道の石畳に雑草が生えている。浄化が進んでいる証拠。


 馬車を降りた。


 ユーリが立っていた。街道の入り口で。


「遅い」


「馬車の速度に文句を言わないでください」


「言っていない。お前が降りるのが遅い」


 ユーリが革袋を差し出した。中に増幅器の改良版。前回から三日で改良を加えたらしい。指先の接触部が滑らかになり、金属の肌触りが変わっている。


「装着してみろ」


 リーゼが右腕に増幅器をはめた。以前よりフィットする。腕を動かしても違和感がない。


「共鳴点を微調整した。お前の精髄の波長に合わせてある」


「どうやって波長を知ったんですか。私はいなかったのに」


「前回のデータが器具に残っている。金属は覚えている」


 リーゼは少し笑った。物質は覚えている。鑑定士の言葉を、鍛冶師が使っている。


* * *


 マティアスの工房。茶が淹れてある。二つ。母の配合。


「遅いぞ」


「茶が冷めますか」


「冷めん。ちょうどいい温度にしてある。二十年淹れておれば、帰る時間くらい読める」


 リーゼは杯を受け取り、口をつけた。苦い。温かい。変わらない味。


「マティアスさん。千年前の記録の一行を」


「ああ。これじゃ」


 マティアスが作業台の上に拓本を広げた。壁面の石をそのまま写し取った薄い紙。古代文字がびっしり並んでいる。その端に、他の文字より小さく浅い一行。風化が激しく、目視ではほとんど読めない。


「わしの目では判読できなかった。古代文字の知識で推測すると、『精髄は返す』『大地に』の断片しか読めん。全文はお前さんの指でなければ」


 リーゼは手袋を外した。増幅器を装着したまま、拓本に右手の指先を当てた。


 石の記憶。千年前のインクの痕跡。風化した表面の下に、彫りの深い文字の圧痕が残っている。


 指先が光った。以前より強く。覚醒の兆候が進んでいる。増幅器が共鳴し、腕全体が微かに振動した。


 情報が流れ込む。古代文字の一文字一文字が、千年の沈黙を破って指先に語りかけてくる。


 だが強すぎる。この一行は、ただの文字ではない。文字そのものが術式として機能している。触れた瞬間、鑑定眼が過剰に反応する。視界が白くなりかけた。


「マティアスさん。この一行は——読むだけで精髄が反応します。文字そのものが術式です」


「そうか。術式として書かれた文字。読む者の精髄属性を刺激する仕組みか」


「はい。ゆっくり読みます。一文字ずつ」


 リーゼは呼吸を整えた。増幅器の出力を最小に落とし、一文字ずつ、千年前の声を聞いていった。


 一行の解読に、三時間かかった。


 ユーリが増幅器の調整を随時行い、マティアスが精髄の安定化を補助した。三人の共同作業。千年前の錬金術師が残した最後の言葉を、三つの世代の技術で読み解いていく。


 一文字目から六文字目。古代文字の基本構文。「精髄は」。


 七文字目から十一文字目。否定形。「奪うものにあらず」。


 十二文字目から十六文字目。肯定形。「精髄は返すものなり」。


 リーゼの指先が震えた。千年前の錬金術師の意志が、文字を通して流れ込んでくる。後悔と希望。大地を殺した者の、最後の祈り。


 十七文字目以降。核心。


「大地に借りたものを大地に返せ。さすれば代償は術者にあらず、大地と術者で分かつ」


 マティアスが目を閉じた。


「分かつ。代償を消すのではなく、分かつ。大地と術者で」


「はい。これが第三の方法の欠けていた最後のピースです」


 リーゼは拓本から手を離した。指先がまだ光っている。千年前の術式文字の余韻が、鑑定眼を刺激し続けている。


「三つの断片を合わせます」


 作業台の上に、全ての記録を並べた。千年前の壁面パターン。父ヘルマンの暗号。マティアスの二十年の研究ノート。そして今日解読した一行。


「千年前の理論は第一段階。精髄の流れを読む。父の暗号は第二段階。読んだ流れを返して制御する。マティアスさんの研究は第三段階。制御した流れを安定させる。そして一行が第四段階。安定した流れを大地に返す。大地に返すことで、代償が術者一人に集中せず、大地と術者で分かたれる」


「四段階」


「読む。返す。安定させる。大地に返す。この四段階が完全に実行されたとき、第三の方法が機能する」


 マティアスが茶を注いだ。冷めた茶ではなく、新しい茶。


「理論は完成じゃ。だが実行には——」


「精髄属性の完全覚醒が必要です。第四段階の『大地に返す』は、物質を読むだけの鑑定眼では不可能。精髄を大地に能動的に流す力が要る。それは覚醒した精髄属性でなければ」


「そうじゃ。そしてお前さんの覚醒が完了すれば——」


「身体への侵食も加速する。覚醒すれば出力が上がる。出力が上がれば、第四段階で大地に返す精髄の量も増える。代償が大地と分かたれても、リーゼの分は確実に蓄積する」


 ユーリが口を挟んだ。


「計算できるか。覚醒して第三の方法を使ったとき、どのくらいの侵食が来る」


「マティアスさんのデータがあれば、概算できます」


「概算しろ。それを元に器具の設計を見直す。負荷を一グラムでも分散できるなら、俺がやる」


 リーゼはマティアスのノートと拓本を並べ、計算を始めた。千年前の理論値。父の実験値。マティアスの観測値。三つの数値から、覚醒後の負荷を推定する。


 結果が出た。


「覚醒して第三の方法を使った場合。一回の大規模浄化で、侵食は右腕から肩まで広がります。第三の方法を使えば進行は止まる。でも浄化のたびに新しい侵食が加わる」


「何回耐えられる」


「分かりません。計算では十回以上。ただし、ユーリさんの器具で負荷を分散すれば、もっと」


「俺が打つ。最高の器具を。お前が壊れないように」


 マティアスが杯を置いた。


「リーゼ。理論は完成した。だが実行するかどうかは、お前さんが決めることじゃ」


「決めています。覚醒します。第三の方法を完成させます。代償は——自分で引き受けます」


「……ヘルマンと同じことを言うのう」


「父の娘ですから」


 窓の外で夕日がシュヴァルツ山脈を照らしていた。千年前の錬金術師も、この夕日を見ただろうか。大地に借りたものを返す方法を残して、歴史の中に消えていった。


 千年かけて、その言葉がリーゼの指先に届いた。

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