第67話 等価の答え
朝。三人が同時に動いた。
カイが宰相府で仮面を脱いだ。宰相の前で、自分が王室騎士団長に証拠を提出済みであることを告げた。
エルヴィラが鑑定部門の権限で、改竄された報告書の原本を公式記録として復元した。三カ所の施設の事故報告。死者一名。水源汚染。精髄灰の漏洩。全てが公式の記録に残った。
リーゼが上奏書を王室騎士団の執務室に提出した。国王への直接上奏。宰相府を通さない正規のルート。
宰相は三方向から同時に挟まれた。
* * *
最初に動いたのはフリードリヒだった。
カイの裏切りを察知し、カイを拘束しようと宰相府の護衛を呼んだ。だがカイは既に宰相府を出ていた。王室騎士団の詰所に移動している。騎士団の管轄内にいる人間を、宰相府の護衛は手出しできない。
「カイ・ローレンツを逮捕しろ!」
「騎士団の管轄です。我々の権限では」
フリードリヒの顔が蒼白になった。空振り。
次にフリードリヒはエルヴィラの鑑定室に向かった。だがエルヴィラの復元記録は既に公式の登録簿に記載されていた。消すには鑑定部門全体の記録を改竄する必要があり、それは物理的に不可能。
「エルヴィラ殿。これは越権行為だ」
「鑑定部門の記録管理は主席鑑定士の権限内です。フリードリヒ局長。あなたにはこの記録を修正する権限はありません」
フリードリヒがリーゼの元に向かったときには、上奏書は既に騎士団長の手に渡っていた。
* * *
午後。宰相がリーゼの前に現れた。
宮廷の回廊。二人きり。護衛もフリードリヒもいない。宰相が一人で来た。
提案ではなかった。脅しでもなかった。問いだった。
「リーゼ・ヴェーバー殿」
「はい」
「一つだけ問う」
宰相の声から、いつもの余裕が消えていた。追い詰められた為政者の声。
「第三の方法が完成しても、代償はゼロにはならない。お前の研究が成功したとして。代償を最小化できたとして。それでも誰かが痛みを引き受ける。お前に問う。誰が代償を払う」
リーゼは答えた。即座に。
「代償を払うのは、自分で選んだ人だけです」
「選ばせるのか。犠牲を」
「選ばせます。知らせた上で。全てを見せた上で。事実を隠さず、改竄せず、報告書を書き直さず。全てを知った上で、それでもやると決めた人だけが代償を引き受ける。それが私の答えです」
「甘い」
「甘いかもしれません。でもあなたのやり方——知らせずに犠牲を強いるやり方は、千年前も二百年前も二十年前も、全て失敗しました。選ばせなかったから、続かなかった。信頼のない力は、永続しない」
宰相が初めて表情を崩した。怒りではなかった。もっと深いもの。
「……わしも、そう思った時期があった」
宰相の声が小さかった。
「二十年前。前任のヨハンから宰相の座を引き継いだとき。農地の荒廃を見て、何とかしなければと思った。正しい方法で。だが正しい方法は間に合わなかった。飢饉が来る。人が死ぬ。間に合わせるには、近道をするしかなかった」
「近道の代償を、他人に払わせた」
「払わせた。そして一人が死に、土地が汚れ、取り返しがつかなくなった。だが今さら戻れん。戻れば、二十年分の犠牲が全て無駄になる」
「無駄ではありません。父の犠牲から、第三の方法が生まれた。代償を知ったからこそ、代償を最小化する道が見えた。犠牲は過ちだった。でも過ちから学ぶことはできる」
宰相が長い間リーゼを見つめていた。それから、目を逸らした。
「……騎士団長が来る前に、辞表を書くとしよう」
「宰相閣下」
「正しいことを言う鑑定士は、やはり厄介だ」
宰相が去った。回廊の向こうに消えていく背中。二十年の重みを背負った背中。
* * *
三日後。宰相ハインリヒ・フォン・ゲルラッハが辞任した。精髄研究局は閉鎖。三カ所の施設は即時停止。騎士団による証拠の押収が始まった。
フリードリヒは逮捕された。ディーターの脱獄幇助と報告書改竄の共犯。ディーター自身の行方は不明。エルツ施設から姿を消していた。
カイが王室騎士団の詰所から出てきた。三ヶ月ぶりに宰相府の外套を脱いでいた。元の不正調査機関の徽章に戻っている。
「終わったか」
「まだです。施設の浄化が残っています。三カ所の精髄灰の除去。グリュンタールと同じ作業を、三カ所同時に」
「お前一人じゃ無理だ」
「だから鑑定士を育てます。宰相の提案を、宰相なしでやります。手法を体系化して、複数の鑑定士に教える」
「合理的だ」
カイがリーゼの横に並んだ。宮廷の中庭。午後の光。
「カイさん」
「ん」
「三ヶ月間、ありがとうございました」
「礼を言うな。仕事だ」
「仕事で仮面を被ったんですか」
「仕事だ。他に理由はない」
「嘘ですね」
「……嘘だ」
沈黙。二人は中庭を歩いた。
「グリュンタールに戻ります」
「ああ」
「カイさんは」
「王都に残る。騎士団の証拠整理がある。施設の閉鎖手続き。ディーターの追跡。やることは山積みだ」
「終わったら」
「終わったら——」
カイが間を置いた。
「今度は甘いパンではなく、答えを持って行く」
「答え?」
「お前が分かっているなら、訊くな」
リーゼは笑った。カイも笑った。仮面のない顔で。
* * *
グリュンタールからの手紙が二通届いた。
ユーリ。
「器具の調子はどうだ。新しいのが完成した。帰ってこい」
マティアス。
「リーゼ。第三の方法の最後の鍵を見つけた。千年前の記録の中に、わしが見落としていた一行がある。お前さんの鑑定眼でなければ開かない。帰ってこい。茶を淹れて待っておる」
最後の鍵。第三の方法の完成に必要な最後のピース。
リーゼは王都を出る馬車に乗り込んだ。窓の外にケーニヒスブルクの城壁が遠ざかっていく。最初は追い出された。二度目は正しく語った。三度目は宰相を止めた。
四度目があるとすれば、それは——。
右手を見た。増幅器を外した素手の指先。白い皮膚。だが指先に宿る光は、前より強い。鑑定眼ではない光。精髄属性の光。覚醒が次の段階に進んでいる。
マティアスの問いが蘇る。「覚醒したとき、何を選ぶ」。
まだ答えは出ない。だが問いの形は見えてきた。
代償を払うのは、自分で選んだ人だけ。ならば自分は何を選ぶのか。誰のために代償を引き受けるのか。
窓の外を春の風景が流れていく。五日後、グリュンタールに着く。ユーリが鍛冶場の前で待っている。マティアスが茶を淹れている。




