第64話 鎖の設計図
カイが持ち出した書類を、エルヴィラの部屋で鑑定した。
深夜。鑑定室ではなくエルヴィラの私室。監視の目が届かない場所。
リーゼが手袋を外し、書類の束に触れた。一枚ずつ。紙の繊維、インクの組成、筆圧のパターン。
「複数の筆跡があります。最低五人が関わっている」
「五人」
「宰相の筆跡が最上段。決裁印を押している。次にフリードリヒ。実務的な記述が多い。三人目は錬金術師。高等級。第5等級以上の精密さで術式の設計図を書いている」
「四人目は」
「不明。だが紙に付着している物質から、北方の港町ノルデン近辺の人間と推定。海塩の微粒子がインクに混じっている」
「ノルデン施設の責任者か」
「そして五人目——」
リーゼの指が止まった。五人目の筆跡が書かれた箇所は、他の部分と紙質が異なる。別の紙に書いたものが貼り付けられている。名前が消されている。削り取られた痕跡。
「名前が消されています」
「消された部分を読めるか」
「試みます」
増幅器を装着した。環型の金属が指先に密着する。ユーリの器具。出力を上げ、削り取られた紙の下層に残る痕跡を読み取る。
インクの圧痕。表面は消されているが、ペンの力で紙に刻まれた微かな凹みが残っている。一文字ずつ復元していく。
「ディ——ー——タ——ー・ヴォ——ル——フ」
「ディーター」
エルヴィラが息を呑んだ。
「投獄中のはずです」
「この筆跡は二ヶ月前のものです。投獄中の人間が宰相府の機密文書に関わっている」
リーゼは書類をめくった。ディーターの筆跡がある箇所の内容を読む。技術的な記述。精髄属性の制御パラメータ。グリュンタールの地下工房での実験データの引用。
「ディーターさんは地下工房の運営者でした。精髄属性の実験データを持っている。宰相はそのデータが必要だった」
「だから脱獄させた?」
「脱獄させたのか、獄中で書かせたのか。いずれにしても、ディーターは宰相の計画に再び関わっている」
エルヴィラが窓を確認した。監視の目がないことを確かめ、声を落とした。
「カイから聞いている。ディーターは二ヶ月前に脱獄した。宰相が手配した」
「脱獄を手配した証拠はありますか」
「カイが探している。だがまだ確証は——」
部屋の外に足音。
二人が口を噤んだ。足音が近づく。扉の前で止まった。
ノック。
「エルヴィラ殿。フリードリヒ局長がお呼びです」
エルヴィラがリーゼに目配せした。書類を隠せ。リーゼは書類の束を自分の鞄に入れた。
「今行きます」
エルヴィラが扉を開け、廊下に出た。リーゼは部屋に残された。
窓から外を見た。宮廷の中庭。月明かり。中庭の向こうに、宰相府の建物が見える。灯りがついている。深夜なのに。
書類の束を鞄から出した。もう一度、最後のページに触れた。
設計図があった。精髄属性の「安定供給装置」の概念図。中央に「制御核」と書かれた空欄。制御核の位置に必要な条件:「精髄の萌芽を持つ者。鑑定眼を有する者。生体との直接接続」。
リーゼ自身が、この設計図の空欄に入る部品だった。
鎖の設計図。人を部品にする設計図。
鞄を閉じた。指先が震えていた。怒りではなかった。父も同じように、部品にされかけたのだ。志願者として。
扉が開いた。エルヴィラではなかった。
「リーゼ・ヴェーバー殿」
フリードリヒだった。人好きのする顔。
「こんな夜更けに、エルヴィラ殿の部屋で何を」
「主席鑑定士と業務の打ち合わせです」
「深夜に?」
「昼は監視がつくので」
フリードリヒの笑顔が消えた。
「冗談ですよ。エルヴィラさんに手紙の返事を渡しに来ただけです」
「……そうですか。ところで、明日の午前に宰相閣下がお会いしたいと」
「宰相が」
「ええ。正式な面談です。調査の進捗報告と、新しい提案があるそうです」
フリードリヒが去った後、リーゼは鞄を強く抱えた。
書類は無事だ。鑑定結果も頭の中にある。だが明日、宰相と直接会う。設計図の空欄が自分であることを知った上で。
宰相の執務室。三度目の対面。
ハインリヒ・フォン・ゲルラッハが机の向こうに座っている。物柔らかな表情。だがリーゼの鑑定眼は、机の表面に新しい精髄灰の残留を検出していた。以前より濃い。この部屋で実験が行われている。
「リーゼ・ヴェーバー殿。遠路ご苦労だったね」
「お呼びいただきありがとうございます」
「単刀直入に言おう。精髄研究局の技術顧問として、正式に就任しないか」
「以前にもいただいた提案ですね」
「条件を上げる。第6等級『賢者』への昇格を推薦する。二十五歳で賢者。前例のない昇進だ」
第6等級。父ヘルマンが到達できなかった等級。リーゼが持つ第5等級の一つ上。
「さらに、研究局の全施設と人材を自由に使える。代償なしの精髄制御法——君が研究している『第三の方法』を、国家の資源で追究できる」
「国家の資源で」
「そうだ。君一人でグリュンタールの工房でやるより、遥かに効率的だ。三カ所の施設に優秀な錬金術師がいる。データも器具も揃っている」
魅力的な提案だった。表面上は。
「宰相閣下。一つ質問してよろしいですか」
「何でも」
「北方のノルデン施設で事故が起きたと聞いています。術者が右腕を負傷した。この事故について、報告書を拝見できますか」
宰相の表情が一瞬固まった。だがすぐに戻る。
「事故報告書は機密扱いだ。技術顧問に就任すれば閲覧権限が付与される」
「就任前に確認したいと申し上げています。事故の原因が分からなければ、自分がその施設で働くことは安全か判断できません」
「もっともだ。閲覧を手配しよう」
「ありがとうございます。もう一つ」
「何かね」
「散歩する権利を制限する法律はありますか」
宰相が眉を上げた。フリードリヒが隣で硬直した。
「唐突だな。何の話だ」
「昨夜、エルヴィラ殿の部屋を訪ねた際、フリードリヒ局長に理由を尋ねられました。深夜に宮廷を歩くことに許可が必要とは知りませんでした」
「フリードリヒ。心当たりは」
「いえ。ただの確認でしたが」
「確認であれば、今後は不要です。技術顧問候補の自由な移動は保障されるべきだ」
リーゼはフリードリヒを見た。フリードリヒの額に汗が浮いている。宰相の前で監視行為を暴かれた格好だ。
「では提案を検討させていただきます。三日以内に回答します」
「待っている」
執務室を出た。回廊でエルヴィラが待っていた。
「どうだった」
「第6等級への昇格と引き換えの就任要請。断りませんでした。保留しました」
「保留? 受けるの?」
「受けません。でも断れば情報源が閉じる。保留している間は、内部の情報にアクセスできる可能性がある」
「カイと同じ考え方ね。内側から」
「カイさんに教わりました」
エルヴィラは口元が緩んだ。
「あなたも変わったわね。追放された頃は『偽物です』しか言えなかった」
「今は別の言い方を覚えました」
「でも本質は同じ。正しいことを言わずにいられない」
「はい。それは変わりません」
回廊の角を曲がったとき、前方の壁際にカイの後ろ姿が一瞬見えた。振り返ると、もういなかった。だが石壁に残るカイの手の痕跡を、覚醒した鑑定眼が拾った。カイはさっきまでここにいた。リーゼと宰相の対話を、壁越しに聞いていた。




