第57話 鑑定士の旅路
フリードリヒ・ランゲは、三日後に回答を受け取った。
「地質調査に協力します。条件は先日お伝えした通り。カイ・ローレンツ調査官の同行を必須とします」
「宰相閣下に確認しましたが、調査官の同行は不要との」
「不要であれば、私の協力も不要です」
フリードリヒの笑顔が消えた。穏やかな仮面の下に、焦りが見える。宰相から「リーゼの協力を取りつけろ」と命じられているのだろう。リーゼが断れば、フリードリヒの任務は失敗になる。
「……再度確認します」
「お待ちしています」
フリードリヒが金のリンデン亭を出ていった。その後ろ姿を、窓際のカイが見ていた。
「押し切ったな」
「押し切りました」
「宰相は飲むと思うか」
「飲みます。私の鑑定眼がなければ第三の方法は実行できない。宰相にとって私は代替不可能な駒です。多少の条件は飲むしかない」
「ただし、向こうも条件を上乗せしてくるだろう」
「そのときはまた交渉します。事実は事実ですから」
* * *
フリードリヒが去った翌日。マティアスが、ある物を取り出した。
小さな革の袋。中から金属の円盤が出てきた。表面に複雑な紋様。裏面に「七」の文字。
第7等級の徽章。大賢者の証。
「わしが院長を辞したとき、徽章は返納したはずじゃった。だが当時の事務官が『紛失扱い』にしてくれた。わしの味方をしてくれた、数少ない人間の一人じゃ」
「これを、どうするんですか」
「使う」
マティアスが徽章を胸に留めた。老人の簡素な衣服に、大賢者の金の徽章。不釣り合いだが、不思議と似合っていた。
「宰相の調査官が次に来たとき、わしが対応する。辺境の隠居老人ではなく、第7等級大賢者マティアス・グリムとして」
リーゼは息を呑んだ。二十年間隠してきた正体を、自ら明かす。
「マティアスさん。それは」
「贖罪じゃ。逃げた分だけ、表に出る。宰相に伝える。この山の記録はわしが管理する。勝手に持ち出したものについても、いずれ返してもらう」
カイが口笛を吹いた。
「元・錬金術院院長。第7等級。証人としてはこれ以上ない」
「だが同時に、計画の認可者としての責任も問われる。わしは自分の罪から逃げん。ただし、三度目の過ちを止める方が先じゃ」
* * *
フリードリヒは二日後に戻ってきた。宰相の回答。カイの同行を認める。ただし調査範囲は宰相府が指定する。
金のリンデン亭。フリードリヒがリーゼとカイの前に座った。
「宰相閣下の承認を得ました。カイ・ローレンツ殿の同行を認めます」
「ありがとうございます。では調査の日程を——」
工房の扉が開いた。
マティアスが入ってきた。いつもの簡素な衣服。だが胸元に、金色の円盤が光っている。
フリードリヒの目が徽章に留まった。笑顔が凍りついた。
「第七……等級……」
「マティアス・グリムじゃ。元・王立錬金術院院長。この山の古代遺跡については、わしが最も詳しい。調査に同行させてもらう」
フリードリヒの顔から血の気が引いた。柔和な笑みが完全に消えた。宰相府の調査官が、第7等級の大賢者を前にして、言葉を失っている。
「宰相閣下に伝えなさい。この山の記録はわしが管理する。勝手に持ち出した記録については、いずれ返却を求める。それと——」
マティアスの目が鋭くなった。老人の目ではなかった。大賢者の目だった。
「黄金律計画の見直しは、表向きだけのようじゃな。この封書に精髄灰が残っておる。宰相府でまだ実験を続けておるな」
フリードリヒが椅子から立ち上がった。顔が白い。
「わ、私は命令に従っているだけで」
「命令に従うのは結構。だが伝えなさい。三度目は許さん」
フリードリヒは逃げるように金のリンデン亭を出ていった。
* * *
カイが王都に戻る日が来た。
宰相の動きを内側から監視するために。エルヴィラと連携して、宰相府の情報を集めるために。
グリュンタールの南門。馬車が待っている。
「また来る」
「いつですか」
「分からん。宰相の動き次第だ。だが——」
カイが少し間を置いた。
「甘いパンの差し入れを持ってきてください」
リーゼが先に言った。カイが目を丸くした。
「……先に言うな」
「遅いからです」
「注文が多い女だ」
「甘いもの好きの調査官に言われたくありません」
カイの口角が上がった。リーゼも笑った。
馬車に乗り込むカイ。窓越しに目が合った。灰色の目。半年前と同じ色。だが今は、違うものが映っている。
馬車が動き出した。土埃を上げて、南の街道を遠ざかっていく。
リーゼは馬車が見えなくなるまで立っていた。胸の奥で何かが締めつけられている。名前はまだ付けられない。
振り返ると、鍛冶場の前にユーリが立っていた。
「行ったか」
「はい」
「……そうか」
ユーリの声は短かった。だがその二文字に、リーゼには聞こえる何かがあった。鍛冶師は物に触れて語らない。代わりに、声の温度で語る。
工房に戻った。マティアスが茶を淹れていた。
「マティアスさん」
「うむ」
「一つ、訊いていいですか」
「何でも訊け」
「私の鑑定眼が覚醒したとき。世界の理を読み替える力を手にしたとき。私はどうすればいいですか」
マティアスは杯を差し出した。薬草茶の湯気が立ち昇っている。
「それはお前さんが決めることじゃ。わしが決めることではない」
「答えになっていません」
「なっておらんな。だがこれだけは言える。力は道具じゃ。鍛冶師のハンマーと同じじゃ。何を打つかは、持つ者が決める」
リーゼは茶を飲んだ。苦い。だが胸の奥に、温かさが残る。
窓の外にシュヴァルツ山脈が見える。夕日が山肌を赤く染めている。あの山の中に、まだ答えが眠っている。千年前の錬金術師が見つけかけた答え。父が探し続けた答え。マティアスが二十年かけて追った答え。
リーゼは手袋を外した。
指先が、薄く光を帯びた。
鑑定眼の反応ではない。もっと内側から。指先の皮膚の下で、何かが脈打っている。温かい。初めての感覚。
覚醒が、始まっている。




