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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
山脈が隠す記憶

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第56話 贖罪の鑑定

マティアスの私物が、作業台の上に並んだ。


 院長時代の公式印章。金属製。王立錬金術院の紋章が刻まれている。二十年以上前のもの。


 黄金律計画の初期設計図。羊皮紙に細密なインクで書かれた術式の設計。マティアスとヘルマンの連名。


 ヘルマンの最後の手紙。すでにリーゼが読んだもの。だが今日はもう一度、鑑定眼の全力で読む。


 そして。


 マティアスが二十年間密かに続けていた研究ノート。三冊。革装。年代順に並んでいる。


「全てじゃ。隠しておるものは何もない」


 マティアスの声は平坦だった。だが手が微かに震えていた。二十年分の秘密を一度に曝け出す恐怖。それでも老人は逃げなかった。


「始めます」


 リーゼは手袋を外した。


 最初に印章に触れた。


 金属の表面から情報が洪水のように流れ込む。二十年間この印章を握った手の痕跡。院長としての決裁。研究の認可。予算の承認。人事の異動。何百回と押された印章が記憶している。


 その中に、黄金律計画の認可印がある。マティアスの手が印章を握り、朱肉につけ、設計図に押した瞬間。


 手が震えていた。あのときも。


「認可したとき、手が震えていました」


「ああ。だが押した」


「はい。押しました」


 次に設計図。ヘルマンとマティアスの連名。二人の筆跡が一枚の紙の上に共存している。ヘルマンが理論を書き、マティアスが検証のコメントを付けている。余白に議論の痕跡。「ここの数値は危険では?」「制御可能な範囲です」「根拠は?」「計算書を別添。ご確認ください」。


 師弟の対話が、紙の上に残されていた。


「父は丁寧な研究者だったんですね。反論にも根拠を添えている」


「理論家じゃった。感覚だけで動く術者ではなかった。だからこそ暴走したときに止められなかった。理論が正しいと確信しておったから」


 ヘルマンの手紙にもう一度触れた。前回より深く読む。鑑定眼の出力が上がっている。前回は読めなかった深層の情報が見える。


 手紙の裏面に、インクの染みがある。ただの染みではない。父が意図的に残した暗号。術式のパターンが染みの中に隠されている。


「マティアスさん。この手紙の裏に、暗号があります」


「暗号?」


「インクの染みに偽装した術式パターン。父が最後に見つけかけた精髄属性の制御法の断片です。手紙の表面には書けなかった。検閲を恐れたのか、時間がなかったのか。染みに隠した」


 マティアスが息を呑んだ。


「二十年間気づかなかった。ヘルマンが手紙に暗号を仕込んでいたとは」


「触れなければ分かりません。目では染みにしか見えない」


 リーゼは暗号を解読した。断片的だが、重要な情報。精髄属性の流れを「読みながら微調整する」具体的な術式パターンの一部。千年前の遺跡で読んだ「第三の方法」の記述と符合する。


「父も第三の方法に辿り着きかけていた。千年前の記録を知らずに、独力で同じ結論に近づいていた」


* * *


 研究ノート三冊。これが本番だ。


 一冊目。辺境に来た直後の記録。院長を辞した直後。文字が荒れている。自責と絶望の時期。だが数ヶ月後から、少しずつ実験の記録が始まる。小規模な精髄属性の制御実験。グリュンタールの土壌を使った微量の検証。


「辺境に逃げたのではなく、辺境で研究を続けていたんですか」


「逃げもした。だが逃げた先で、何もしないではいられなかった。ヘルマンの死を無駄にしたくなかった」


 二冊目。中期の記録。実験の規模が徐々に拡大している。だが常に「安全な範囲」を守っている。一度も暴走させていない。慎重すぎるほど慎重に。


 ノートの余白に、ヘルマンの名前が何度も書かれている。消しては書き、書いては消している。


「この時期、夢を見ておった。ヘルマンが工房に来て、茶を飲む夢。目が覚めると、いつも泣いておった」


 三冊目。直近の記録。リーゼがグリュンタールに来てからの期間。


 ノートの筆跡が変わっている。荒れが消え、安定している。実験の内容も変わった。「触媒なしの鑑定」の理論的解析。リーゼの能力を観察した記録。


「私を観察していたんですか」


「ああ。お前さんの浄化作業を毎日見ておった。土壌に触れるときの指の動き、鑑定眼が反応するときの呼吸の変化、増幅器との共鳴パターン。全てを記録した」


「なぜ言ってくれなかったんですか」


「言えば、お前さんは意識する。意識すれば、自然な動きが変わる。自然体でこそ、精髄属性の萌芽は正しく観察できる」


 三冊目の最後のページ。リーゼは指先で触れた。


 マティアスの二十年分の苦悩と執念が、紙の繊維に刻まれている。一ページごとに。毎日の小さな実験。毎夜の後悔。そしてリーゼが来てからの静かな希望。


「マティアスさんの研究ノートの最後に、結論が書いてあります」


「読んでくれ」


「『精髄属性の安定制御は、鑑定眼の持ち主にのみ可能。理由。精髄属性の本質は「読む力」であり、それは世界の理を「理解する力」だからじゃ。力で押すのではない。理解することで、制御する。リーゼ。お前さんがここに来てくれて、よかった』」


 マティアスの目から涙がこぼれた。


 二十年。二十年かけて、この一行に辿り着いた。弟子を失い、地位を捨て、辺境に逃げ、それでも研究を続け、ヘルマンの娘が現れるまで待ち続けた。


「ヘルマン」


 マティアスが呟いた。天井を見上げている。


「お前さんの娘が、お前さんの研究を継いでくれた」


 リーゼは研究ノートを閉じた。指先にまだ二十年分の記憶が残っている。


「マティアスさん。これで三つの断片が揃いました。千年前の記録。父の暗号。マティアスさんの二十年の研究。繋ぎ合わせれば、第三の方法を完成させられます」


「できるか」


「やります。時間がかかっても。宰相より先に」


 マティアスが涙を拭いた。老人の手で。鍛冶師のように太い手ではなく、学者の細い手で。だがその手が二十年間、ペンを握り続けた。


「師弟ではないと言ったな、お前さんは」


「はい。ただの居候と家主です」


「では家主から一つだけ。茶を淹れる。座れ」


「はい」


 薬草茶の匂いが、工房に広がった。

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