第47話 鉱脈の記憶
禁足地は、岩壁の裏にあった。
朝から三時間歩き、尾根を二つ越えた先。ベルタが「ここからだ」と足を止めた場所は、垂直に近い崖の前だった。
「鉱夫の抜け道がある。崖の表面に足場が切ってある。古い。わしの祖父が若い頃に使っていたと聞いた」
崖の表面に、人の手で削られた浅い窪みが等間隔に並んでいた。風化で半ば消えかけているが、確かに足場だ。
「あんたら、高い所は大丈夫か」
「大丈夫です」
「嘘つけ。顔が白いぞ、調査官」
カイが黙って崖に取りついた。リーゼが続く。ユーリが最後尾でマティアスを支えながら登る。ベルタが上から指示を出す。
「右足をもう一段上。左手はその窪みだ。違う、もう一つ右」
崖を越えるのに一時間かかった。全員が反対側に降り立ったとき、ベルタ以外は息が上がっていた。
「この先が禁足地じゃ。わしもここから先は二度しか入ったことがない」
「二度?」
「一度目は若い頃の度胸試し。二度目は仲間が迷い込んだときの捜索。どちらも浅いところで引き返した」
崖の裏側は、表側とは全く異なる地形だった。
山肌に挟まれた細長い谷。陽光が谷底まで届かず、薄暗い。空気が冷たく、湿り気がある。植生が少ない。草も苔も育っていない。岩肌が剥き出しで、灰色の石が谷底に転がっている。
「草が生えていない」
ユーリが地面を見て言った。
「ああ。ここの土は死んでいる。鉱夫の間では『灰の谷』と呼ばれておった」
「灰の谷」
リーゼは膝をつき、地面の石に触れた。石の表面から微量の精髄灰の残留を検出する。千年前のもの。浄化されていない。大地が千年間、死んだまま放置されている。
「グリュンタールと同じ症状です。精髄灰による土壌汚染。でも千年前のもの。千年間、浄化されずに残っている」
「千年も草が生えない土地か。恐ろしいな」
カイの声が低かった。グリュンタールの汚染は数年分で、リーゼが数ヶ月かけて浄化した。千年分の汚染を浄化するには、どれだけの時間がかかるのか。
リーゼの鑑定眼が、谷に入った瞬間から反応していた。空気中の微粒子。岩の表面の薄い膜。全てに、精髄属性の残留が含まれている。千年前のものだ。
「ここ一帯が術式の影響下にあります。空気にまで残留が浸透している」
「千年前の術式が、まだ空気に残っているのか」
「残っているのではなく、維持されています。術式の自動維持機構が、まだ動いている」
ベルタが首を振った。
「鉱夫が避けるわけだ。空気がおかしいとは感じていた。説明がつかなかったが」
谷の奥へ進む。リーゼが先頭に立ち、鑑定眼で残留の濃度を読みながら道を選んだ。濃度が高い方へ。源に向かって。
三十分ほど歩いたとき、谷が開けた。
岩壁に、文字が刻まれていた。
風化で半ば消えかけた文字。だが人の手によるものだ。直線と曲線が組み合わさった古代文字。その周囲に、術式の紋様が放射状に広がっている。
マティアスが足を止めた。
「古代文字じゃ。先史時代の錬金術師が使っていた表記体系。現代とは異なるが、わしには読める」
「何と書いてありますか」
マティアスが岩壁に目を凝らした。指で文字をなぞる。
「『賢者の試練場。ここに入る者は、大地の声を聞く覚悟を持て』」
「大地の声」
「精髄属性のことじゃろう。古代の錬金術師は、精髄属性を『大地の声』と呼んでおった」
リーゼは手袋を外した。岩壁の紋様に手を伸ばす。
「リーゼ。慎重にしろ」
カイの声が後ろから聞こえた。だがリーゼの指はもう紋様に触れていた。
情報が爆発した。
千年前の術式が一度に流れ込んでくる。通常の鑑定とは桁が違う。壁面全体が一つの巨大な術式であり、その全構造が指先からリーゼの鑑定眼に押し寄せてきた。
視界が白くなった。体の感覚が消えた。鑑定眼だけが動いている。千年前の術式の構造。規模。目的。精髄属性の流れの設計図が、頭蓋の中に直接書き込まれていくような感覚。
この谷全体が一つの実験場だった。山脈の岩盤に精髄属性の術式を刻み、大地そのものを錬金術の炉にする。規模が桁違いだ。グリュンタールの地下工房も、王都の地下の術式網も、これに比べれば子供の砂遊び。
意識が飛びかけた。
腕を掴まれた。強い力。引き戻された。岩壁から手が離れる。
「触れるなと言ったのは聞こえなかったのか」
カイだった。リーゼの右腕を両手で掴んでいる。灰色の目が怒っている。
「……すみません。でも、読めました」
「死にかけてから言うな」
カイの手がまだリーゼの腕を掴んでいた。離さない。リーゼの脈拍を確かめているのか、それとも。
焚火の向こうで、ではなく。すぐ後ろで。ユーリがその光景を見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。鍛冶師の目は、金属の傷を見つけたときと同じ目だった。
「大丈夫です。もう大丈夫」
膝が震えていた。立っているのがやっとだ。増幅器なしで壁面全体の術式を読もうとした。無謀だった。だが読めた。頭の中に、千年前の設計図が刻まれている。
カイがようやく手を離した。
「何が読めた」
「この谷全体が、千年前の巨大な実験場です。山脈の岩盤に精髄属性の術式を刻んで、大地そのものを錬金術の炉にしていた。規模はグリュンタールの地下工房の比ではありません」
「谷全体が炉だと?」
「はい。そして術式はまだ維持されている。千年間、自動で」
ベルタが低く口笛を吹いた。
「鉱夫が百年避けた理由が分かった。迷い込んだ連中は、この術式に巻き込まれたのか」
「その可能性はあります」
リーゼは谷の奥を見た。岩壁の古代文字の先に、道が続いている。谷が狭まり、山肌が両側から迫ってくる。足元の精髄灰の残留が、一歩ごとに濃くなっていく。
谷の最奥部。行き止まりかと思ったその先に。
山肌を削って作られた、巨大な入口があった。
石の柱が左右に立ち、アーチ状の天井を支えている。入口の上に、紋章が刻まれていた。炎と書物を組み合わせた古代のデザイン。
マティアスの顔が蒼白になった。
「この紋章は」
声が震えていた。マティアスの声が震えるのを、リーゼは初めて聞いた。
「初代院長の紋章じゃ。王立錬金術院の、最初の院長。千年前にこの機関を創設した人物の——」
「千年前の院長が、ここで研究を」
「ここが全ての始まりじゃ。錬金術院が生まれた場所。賢者の石の研究が始まった場所。そして——」
マティアスの目が入口の闇を見つめていた。
「千年前に封じられた場所じゃ」




