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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
山脈が隠す記憶

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第45話 遺された配合

翌朝。リーゼは工房に籠もり、父の実験日誌を最初のページから読んでいた。


 読む、といっても目で追うのではない。手袋を外し、一ページずつ指先で触れていく。紙の繊維に刻まれたインクの層から、書かれた日時、筆者の体調、そのときの感情までが流れ込んでくる。


 ヘルマン・ヴェーバー。二十五年前の若い錬金術師。


 日誌の序盤は研究の記録だった。精髄属性の基礎実験。土壌サンプルに微量の精髄を通し、組成変化を測定する。データは緻密で、考察は論理的。筆圧は安定していた。自信に満ちた若者の手。


 中盤から変わる。実験の規模が拡大し、制御が難しくなっていく。「予想外の副産物」「精髄灰の処理法が未確立」「術者への負荷が想定以上」。筆圧が乱れ始めている。焦り。だが撤退しない。「もう少しで制御法が見つかる」。同じ言葉が何度も繰り返されている。


 リーゼの指先が痛んだ。父の焦りが紙を通して伝わってくる。


 終盤。筆跡が急激に弱くなる。「手の震えが止まらない」「精髄灰の侵食が骨まで達した」「クラーラの茶がなければ、今日も起き上がれなかっただろう」。


 クラーラ。母の名前が日誌に初めて現れたのは、中盤の末だった。


『クラーラが新しい配合を試してくれた。苦い。だが飲んだ後、指の震えが収まった。彼女は薬草師だ。俺の症状を見て、独自の処方を編み出した。「精髄灰の侵食を遅らせる効果がある」と言う。根拠を問うたら、薬草学の理論を三時間語られた。俺より理論家だ』


 リーゼは思わず笑った。涙の跡がまだ頬に残っているのに、笑ってしまった。母は理論家だったのか。


 さらに読む。


『クラーラの配合を記録する。薬草茶としての処方。精髄灰の侵食を遅延させる効果あり。配合比: カモミール基剤3、ヴァレリアン根2、リンデン花1、蜂蜜少量。重要なのはリンデン花の焙煎温度で、85度を超えると有効成分が壊れる』


 マティアスが毎日淹れている茶の配合。完全に一致する。


「マティアスさん」


 工房の奥で薬草を仕分けていたマティアスが振り返った。


「茶の配合。母の処方だったんですね」


「ああ。クラーラから直接教わった。ヘルマンの侵食を遅らせるために」


「でもヘルマンは死んだ。遅らせるだけでは足りなかった」


「足りなかった。クラーラの処方は侵食を遅らせるだけで、止めることはできんかった。精髄灰の侵食を根治するには、精髄属性そのものを制御する方法が必要じゃ。ヘルマンはそれを探していた。見つける前に、時間が尽きた」


「それでもマティアスさんは、茶を淹れ続けている」


「クラーラに約束したのじゃ。『先生、この茶を忘れないでください。いつか、この配合が役に立つ日が来るかもしれない』と。薬草師の勘じゃったのか、予言じゃったのか。わしはただ約束を守っておるだけじゃ」


 リーゼは日誌を閉じた。父の研究。母の処方。マティアスの弔い。三つが一つの茶に込められていた。


* * *


 工房を出ると、ユーリが鍛冶場の前に座っていた。


 朝食の皿を二つ持っている。パンと干し肉と水の入った杯。一つをリーゼに差し出した。


「食え」


「ありがとうございます」


「泣いた後の顔だな」


 リーゼの手が止まった。ユーリは食べ物を口に運びながら、淡々と言った。


「目が腫れている。鼻も赤い。だが、昨日より顔色はいい」


「……よく見ていますね」


「鍛冶師は金属の表面を見る仕事だ。人の顔くらい見える」


 リーゼはパンをかじった。グリュンタールのパン屋の味。小麦の甘さ。昨日の夜は何も食べられなかった。今朝は食べられる。それだけで、少し回復したことが分かる。


「ユーリさん。父の日誌を読みました」


「ああ」


「父も、物に触れて読む力がありました。私と同じ。その力が暴走して、父は死にました」


 ユーリが咀嚼を止めた。リーゼを見た。


「お前もそうなるのか」


「分かりません。でも、同じ力を持っている以上、可能性はあります」


「なら、制御する方法を見つけろ」


 ユーリの声は平坦だった。感情を込めない、いつもの鍛冶師の口調。だがその平坦さの中に、一つだけ違うものがあった。


「鍛冶師は鉄を制御する。火を読み、温度を測り、叩く力を調整する。暴走するのは制御法を知らないからだ。知れば、暴走は起きない」


「それは金属の話です」


「鑑定も同じだろう。触れて、読んで、力を調整する。お前がやっていることは、鍛冶と変わらん」


 リーゼは少し驚いた。ユーリの言葉は単純だった。だが核心を突いている。制御法を見つければいい。父が見つけられなかったものを。


「もう一つ」


「はい」


「あの鉱石。お前が昨日読んだ古代の術式。あれと父親の研究は、似ているのか」


 リーゼの鑑定眼が記憶を照合した。父の日誌に記された術式パターンと、鉱石から読み取った千年前の構文。


 似ている。


「カイさんと確認します」


* * *


 工房に戻り、カイに合流した。マティアスも同席。


 リーゼは増幅器を左手に、右手で鉱石に触れた。同時に、父の日誌を傍らに開く。


「比較します。鉱石の古代術式と、父の研究ノートの術式パターン」


 増幅器の出力を上げた。鉱石の内部構文を読み出し、父のノートの記述と照合していく。


 波長の基本周期。構文の分岐パターン。精髄属性の流れの方向性。


「一致率78%。根底の設計思想は同じです。千年前の錬金術師と父は、同じ系統の研究をしていた。だが千年前の方がより洗練されている。現代の術式が劣化コピーのようです」


 カイが腕を組んだ。


「千年前の技術の方が進んでいた。そしてその技術は失われた」


「失われたのではなく、封じられたのかもしれません。千年前に何かが起きて、研究が禁じられた。その記録がシュヴァルツ山脈の遺跡に眠っている」


 マティアスが茶を啜った。


「ヘルマンもそう考えておった。古代の錬金術師は精髄属性の制御に成功した可能性がある。だがその成果は消えた。なぜ消えたか。何が起きたか。それが分かれば、ヘルマンが解けなかった問いに答えが出る」


「父が解けなかった問いを、私が解く」


 リーゼは鉱石から手を離した。指先が熱い。増幅器が限界近くまで酷使されている。


「シュヴァルツ山脈に行きます。古代の遺跡を見つけて、千年前の記録を読む。父の研究の続きを、そこから始めます」


 カイが立ち上がった。


「一人で行くつもりか」


「いいえ。一人では無理です」


「なら俺も行く。宰相が同じものを探しているなら、先に見つけなければならない」


 マティアスが杯を置いた。


「わしも行こう。あの山にはわしも知らん場所がある。だが心当たりはある。案内人が要る。ベルタに声をかけよう」


「ベルタ?」


「山の案内人じゃ。若い頃は鉱夫をしていた。シュヴァルツ山脈のことなら、あの女に聞け」


 四つの杯が空になった。薬草茶の香りが工房に残っている。


 母の処方。父の夢。マティアスの罪。そしてリーゼの鑑定眼。全てが一つの道を指している。


 シュヴァルツ山脈。千年前の秘密が眠る場所へ。

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