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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
山脈が隠す記憶

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第44話 師と弟子

「ヘルマン・ヴェーバーは、わしの弟子じゃった」


 マティアスの声が封印の部屋に響いた。石の壁が声を吸い込み、返さない。


「二十五年前。王立錬金術院に、一人の青年が入学してきた。第1等級の試験を満点で通過した。触媒を使った標準鑑定で、他の学生が三日かかる分析を半日で終えた。わしは院長として、あの青年の素質に目を留めた」


 リーゼは父の日誌を膝の上に置いたまま、マティアスの声を聞いていた。指先が日誌の表紙に触れている。父の手の痕跡が、ページの一枚一枚から伝わってくる。


「三年で第4等級まで昇った。史上最速じゃった。だがヘルマンの本当の才能は速さではなかった。あの青年には、触媒なしで物質に触れて読む力があった」


 リーゼの指先が冷たくなった。


「わしと同じ」


「お前さんと、同じじゃ」


 マティアスが椅子に座った。老人の体が、二十年分の重みで沈んでいくように見えた。


「ヘルマンの能力は、水属性の極致だとわしは考えていた。だがヘルマン自身は違う仮説を持っておった。自分の力は水属性ではなく、精髄属性の萌芽だと」


「精髄属性」


「五つ目の属性。火、水、土、風、そして精髄。生命と世界の理に触れる力。禁忌とされておる。だがヘルマンは、禁忌を恐れなかった。理解すれば制御できると信じておった」


 カイが壁に背を預けて聞いている。灰色の目が動かない。


「黄金律計画は、ヘルマンの仮説から始まった。精髄属性を用いれば、大地そのものの組成を書き換えられる。荒廃した農地を蘇らせ、鉱脈を再生し、枯渇した水源を復活させる。夢のような計画じゃった」


「夢」


「当時の王国は飢饉の瀬戸際にあった。農地の三割が荒廃し、対策は間に合わなかった。ヘルマンの研究は希望に見えた。わしは院長として認可した。国家の名のもとに」


 マティアスの手が膝の上で握りしめられた。


「実験は順調に進んだ。小規模な土壌変換に成功し、荒廃した畑を蘇らせた。だが精髄属性は制御が難しい。規模を拡大すると暴走する。副産物として精髄灰が発生し、周囲の土壌を汚染する」


「グリュンタールで起きたことと同じ」


「同じじゃ。二十年前の実験場は、シュヴァルツ山脈の麓にあった。ヘルマンが実験の規模を拡大したとき、精髄属性が暴走した」


 マティアスの声が途切れた。


「暴走は、大地だけではなく術者の体を侵す。精髄灰が血液に入り、内臓を侵食する。ヘルマンは実験後、立てなくなった」


 リーゼの手が震えた。日誌のページが微かに揺れる。


「止められなかったんですか」


「止めようとした。だがヘルマンは拒んだ。『もう少しで制御法が見つかる』と。あの青年は——お前さんと同じじゃった。触れてしまったものを手放せない人間じゃ」


「それで」


「侵食は進行した。ヘルマンは錬金術院を去った。実験は中止になり、わしは責任を取って院長を辞した。だがヘルマンの容態は回復しなかった」


 マティアスが目を閉じた。


「ヘルマンは田舎に移り住んだ。そこでクラーラという薬草師の女と出会い、結婚した。リーゼ、お前さんの母親じゃ」


 母の名前。マティアスの口から聞くのは初めてだった。


「クラーラは聡い女じゃった。薬草の配合で精髄灰の侵食を遅らせる方法を編み出した。あの薬草茶じゃ。お前さんが『母の味』と言ったあの茶は、クラーラがヘルマンの命を一日でも延ばすために作った処方じゃ」


 薬草茶。母の味。マティアスが毎日淹れていた茶。弔いだった。


「やがてお前さんが生まれた。ヘルマンは喜んだ。だが同時に怯えておった。自分の力が娘に遺伝しているかもしれないと」


「遺伝」


「精髄属性の萌芽は、遺伝する。ヘルマンはそれを実験で確かめておった。そしてお前さんが物に触れるたびに、世界が見える子供だったと」


 リーゼの記憶の底で、何かが動いた。幼い頃、物に触れると「声」が聞こえた。母が「リーゼ、手袋をしなさい」と言った。あれは癖を直すためではなかった。力を隠すためだった。


「ヘルマンは七年で死んだ。クラーラの薬草茶がなければ、三年も保たなかっただろう。クラーラはヘルマンの看病で体を壊し、翌年に後を追った」


「流行病、と聞いていました」


「嘘じゃ。錬金術汚染による遅発性の侵食。流行病と記録されたのは、黄金律計画の存在を隠すためじゃ」


 リーゼは立ち上がった。日誌を胸に抱えた。


「マティアスさん」


「うむ」


「父は——最後に何か言い残しましたか」


 マティアスの目に光が溜まった。


「ヘルマンが死ぬ前日、わしに手紙が届いた。その手紙は、この部屋の机の上にある」


 リーゼは机を見た。封蝋のされた手紙。二十年間、ここに置かれていた。


 手袋を外し、手紙に触れた。封蝋の下から、父の手の温もりが流れ込んだ。弱っていた。指の力がほとんど残っていなかった。それでもペンを握り、最後の言葉を書いた。


 封を切った。


『先生。娘に、触れる力がある。俺と同じ力が。頼む、先生。あの子を守ってくれ。そして——あの子が大きくなったら、伝えてほしい。お前の力は呪いではない。世界を読む力だ。正しく使えば、俺が壊したものを、お前が直せる』


 文字が滲んでいた。インクではない。涙の痕だった。二十年前の、父の涙。


 リーゼは手紙を握りしめた。


* * *


 地上に出た。


 工房の裏の中庭。午後の光。リーゼは石壁に背を預けて座り込んだ。膝を抱えた。日誌と手紙を胸に抱えている。


 泣いていた。声を出さずに。


 二十五年間、知らなかった。父の名前も。母の薬草茶の意味も。追放の本当の理由も。自分の力が何であるかも。全てを今日、知った。


 足音が近づいた。


 カイだった。


 何も言わず、隣に座った。石壁に背を預け、同じ方向を見ている。中庭の向こうに、シュヴァルツ山脈の稜線。


 長い沈黙。


「父の名前を、今日初めて知りました」


「ああ」


「流行病だと思っていました。ずっと」


「ああ」


 カイは何も言わない。慰めも励ましもしない。ただそこにいる。


 リーゼの涙が止まった。止まったのは、隣に人がいたからだ。


「カイさん」


「ん」


「私の鑑定眼は、父から受け継いだものだそうです。精髄属性の萌芽」


「そうか」


「父が壊したものを、私が直せると。父はそう書いていました」


「……で?」


「まだ分かりません。でも——触れてしまった以上、読むしかない」


 カイの口角が微かに上がった。


「それはお前の口癖だな」


「癖です」


「知ってる」


 二人は並んで座っていた。中庭の光が傾いていく。山脈の稜線が夕日に染まり始めていた。

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