第43話 封印の間
「覚悟はあるか」
マティアスの声は静かだった。工房の作業台を挟んで、二人は向かい合っている。朝の光が窓から差し込み、薬草茶の湯気が光の帯を横切っていた。
「封印の部屋の中にあるのは、わしの罪の記録じゃ。それを見てもなお、わしの弟子でいてくれるか」
「私はマティアスさんの弟子になった覚えはありません」
マティアスが目を丸くした。
「師匠と呼んだこともないし、弟子入りの儀式もしていない。私はただの居候で、マティアスさんはただの家主です」
「……そうだったかの」
「ただし、家主が何を隠していても、触れてしまったものは読みます。それが私の性分ですから」
マティアスが笑った。小さく、だが本当に可笑しそうに。
「ヘルマンと同じことを言うのう」
「ヘルマン?」
「……封印を解こう」
マティアスは立ち上がり、壁の棚から古い革鞄を取り出した。中にあるのは院長室専用紙に書かれた術式の符牒。リーゼが王都から持ち帰ったものとは別の、もう一枚。
「封印は二重じゃ。お前さんが持っている符牒が一つ目の鍵。わしが持っているのが二つ目。両方なければ開かん」
「二人の鍵が必要な封印」
「一人では開けられんようにした。わしが一人で暴走しないための安全装置じゃ。まさか鍵の片方を、ヘルマンの娘に渡すことになるとは思わなんだが」
リーゼの手が止まった。今、マティアスは何と言った。
「ヘルマンの——」
「順序じゃ、リーゼ。先に部屋を開ける。話はその後じゃ」
* * *
グリュンタールから王都の地下書庫に直接行くことはできない。だがマティアスには別の方法があった。
「封印は遠隔で解除できる。術式の設計者がわしじゃからな。ただし、部屋の中身を見るには直接行かねばならん」
「王都まで五日かかります」
「行かんでもよい」
マティアスが作業台の上に二枚の符牒を並べた。
「実はの、地下書庫の封印の部屋には——もう一つ入り口がある。こちらから繋がっておる」
マティアスは工房の奥の壁に手を当てた。石壁の表面に、微かな術式の紋様が浮かび上がる。リーゼの鑑定眼が反応した。壁の中に、空間がある。
「二十年前にこの工房を建てたとき、地下書庫との間に転送路を組んだ。院長を辞めるとき、封印の部屋の中身を完全に手放すことができなかったのじゃ」
「手放せなかった」
「罪の記録を捨てることは、罪を忘れることじゃ。わしにはその権利がない」
カイが工房の入口に立っていた。いつから聞いていたのかは分からない。
「行くぞ。準備はいい」
「カイさんにも来てもらいます」
「調査官として、か」
「証人として」
マティアスが二枚の符牒を左右の手で握った。古代語で短い詠唱。石壁の紋様が光を帯び、壁が薄くなっていく。壁の向こうに、冷たい空気と暗い石の階段が見えた。
三人は階段を下りた。マティアスが先頭。リーゼが続く。カイが最後尾。
階段は狭く、石壁が両肩に触れそうだった。二十段。三十段。下りるにつれ空気が冷たくなっていく。マティアスの背中が術式灯の青白い光に照らされている。老人の背中。だがその歩みに迷いはなかった。
「マティアスさん。この通路を、二十年間使っていたんですか」
「使ってはおらん。ただ、壊す気にもなれなかった。いつか開ける日が来ると、どこかで分かっておった」
カイが後ろから呟いた。
「二十年間、逃げ道を残していたとも言える」
「辛辣じゃな、調査官」
「事実を言っただけだ」
「お前さんとリーゼは似ておるな。事実が好きじゃ」
* * *
地下。石の回廊。空気が冷たく、乾いている。防湿の術式が壁面に刻まれている。王都の地下書庫と同じ設計。同じ術者の手による封印。
回廊の突き当たりに、石の扉。扉の周囲に複雑な術式紋様が刻まれている。以前、王都で見たものと同一の封印。
リーゼは扉に手を当てた。
冷たい石の表面から、術式の残留が流れ込む。マティアスの術式。第7等級。だが今回は、それだけではない。封印が組まれた正確な時刻まで読める。増幅器を通さずに。
「この封印が組まれたのは、20年と43日前。午前3時頃。真夜中に、一人で組んでいます」
マティアスの目が揺れた。
「……正確じゃ。あの夜のことは忘れん」
「何があったんですか」
「扉を開ければ分かる」
マティアスが扉に右手を当て、リーゼが左手を当てた。二つの符牒が同時に反応する。光が走り、紋様が消えていく。石の扉がゆっくりと開いた。
中は小さな部屋だった。石の壁に囲まれた四畳半ほどの空間。壁面の棚に、革装の書物と羊皮紙の束が整然と並んでいる。中央に木の机と椅子が一脚。机の上に、封蝋のされた手紙が一通。
二十年間、誰にも触れられなかった部屋。空気が止まっている。
リーゼは棚に近づいた。手袋を外した。
最初の書物に触れる。マティアスの手による研究記録。「精髄属性の制御に関する基礎研究」。院長時代のもの。紙の経年変化から、二十二年前の記述。マティアスがまだ現役の院長だった頃。
二冊目。「黄金律計画 初期設計書」。マティアスの署名入り。隣に当時の宰相の署名。公式認可の記録。この計画は、国家事業として始まった。
三冊目。薬草学の論文集。著者名に触れた。知らない名前。だがインクに混じる微量の有機物から、著者が薬草を日常的に扱う人間だったことが読める。薬草師。
四冊目。別の筆跡。若い手。力強く、だが少し乱れている。書き手の指の震えが、筆圧の微細な揺れとして紙に記録されている。
「実験日誌」
表紙を開いた。
最初のページに、日誌の所有者の名前が記されていた。
指先から、情報が流れ込む。インクの酸化度。紙の経年変化。筆圧のパターン。この日誌を書いた人間の手の大きさ、筆記の癖、インクを持つ角度。
名前を読んだ。
ヘルマン・ヴェーバー。
リーゼは日誌を持ったまま、動けなくなった。
ヴェーバー。自分の姓。
「マティアスさん」
声が震えた。自分でも驚くほど、細い声だった。
「この人は——」
マティアスが目を閉じた。長い沈黙。二十年間封じていた扉は、物理的にはもう開いている。だが本当の封印は、これから解かれる。
「ヘルマン・ヴェーバー。わしの弟子じゃった。第4等級の錬金術師で、精髄属性の研究者で、そして——」
マティアスの声が掠れた。
「お前さんの、父親じゃ」
日誌を持つリーゼの手が震えていた。指先が、二十年前のインクの温度を読んでいる。父の手がこのペンを握り、この紙にインクを落とした。その手の温もりが、二十年の時間を越えて、指先に伝わっていた。




