第40話 薬草茶の約束
街道の向こうに、一人の男が立っていた。
革の前掛け。煤の染みた袖。鍛冶師の太い腕が、ぎこちなく組まれている。ユーリだ。
「迎えに来てくれたんですか」
「たまたまだ。鉱石を拾いに行った帰りだ」
たまたまにしては、街道の方角を向いて立っている。リーゼは言わなかった。
並んで歩き出した。グリュンタールの街道は午後の日差しに照らされ、石畳の隙間から雑草が顔を出している。半年前、護送馬車でこの道を通ったとき、こんな草はなかった。浄化が進んでいる証拠だ。
「街は変わりないですか」
「ハンスが二区画目を拓き始めた。パン屋の庭に花が咲いた。あと、井戸の水が少し甘くなった。ルッツの爺さんが毎日味見して報告してくる」
「それは——良い兆候です」
「ああ。お前のおかげだ」
ユーリの声は素っ気なかった。だが「お前のおかげだ」を、鍛冶師は滅多に言わない。リーゼは少し俯いた。
鍛冶場が見えてきた。煙突から薄い煙が上がっている。炉を焚いていたのだろう。「たまたま帰り道」ではないことが、煙で分かる。
「ユーリさん。携帯器具のことですが」
「壊したか」
「壊していません。ただ、精密天秤の感度が上がっていました。王都で使ったとき、以前より微細な残留物を検出できた」
「ああ。軸受けの遊びを詰めた。手紙に書いてあった。精密天秤の傷のこと」
「直してくれたんですか」
「壊したと思ったからな。開けてみたら傷だけで済んでいた。ついでに調整した」
ついで。ユーリの「ついで」は、一晩かけた調整を意味する。リーゼはそれを知っている。
「ありがとうございます」
「礼はいい。壊すな」
* * *
マティアスの工房。扉を開けると、薬草茶の匂いがした。
作業台の上に湯気の立つ杯が二つ。マティアスが木の椅子に座って待っていた。白髪交じりの髪。丸い眼鏡。流水紋の焼き物の杯。いつもの光景だ。
「茶が冷めた」
「すみません。馬車が遅れて」
「馬車のせいではなかろう。ユーリと話し込んでいたのだろう」
図星だった。マティアスは眼鏡の奥で笑っている。リーゼは黙って杯を受け取り、口をつけた。
母と同じ味。
この配合の意味を、今は知りたい。だが聞く前に、やるべきことがある。
「マティアスさん。王都で知ったことを報告します」
リーゼは王都での調査の経緯を簡潔に語った。鑑定記録の改竄。宝冠のルビーの偽造。宰相の関与。帳簿の三角構造。ディーターの証言。そして地下書庫でマティアスの名前を見つけたこと。
マティアスは茶を啜りながら黙って聞いていた。表情は変わらない。だが杯を持つ手が、わずかに強張っていた。
「全て知っておる。カイ殿から手紙が来ていた」
「では——」
「待て。一つ訊きたい。宰相はどうした」
「黄金律計画の見直しを公式に発表しました。精髄属性に依存する路線は中止して、水属性浄化術に転換すると」
「公式に、か」
マティアスの声に含みがあった。
「信じていないのですか」
「わしはあの手の人間を何十年も見てきた。公式の発表と裏の動きは別物じゃ。辞めたと言って辞める宰相を、わしは一人も知らん」
リーゼは黙った。カイも同じことを言っていた。宰相が「山脈の古文書調査」に予算を計上しているという情報。カイがグリュンタールに来たら、マティアスにも共有すべきだろう。
「その件は、カイさんが来てから改めて」
「カイ殿が来るのか」
「はい。報告書の処理が終わったら来ると」
「ほう」
マティアスの口元に微かな笑みが浮かんだ。何を読み取ったのかは分からない。
「では——封印の部屋のこと」
「ああ」
「中を見せてください」
マティアスが杯を置いた。静かな音。
「まだ早い」
「なぜですか。符牒はここにあります。マティアスさんが解くと約束してくれた」
「約束は守る。だが順序がある」
「順序?」
マティアスがリーゼを真っ直ぐに見た。老人の目。だがその奥に、底知れない深さがある。第7等級の大賢者の目。
「リーゼ。お前さんはあの符牒に触れて何を読んだ?」
「マティアスさんの術式です。第7等級の残留。精密で、強力で——」
「それだけか」
リーゼは口を噤んだ。それだけではなかった。符牒に触れたとき、マティアスの術式と自分の鑑定眼に、同じ波長を感じた。だがそれが何を意味するのか、まだ分からない。
「同じ波長を感じました。マティアスさんの術式と、私の鑑定眼に」
「それじゃ」
マティアスが立ち上がった。窓辺に歩み寄り、夕暮れのグリュンタールを見下ろした。
「封印の部屋の中にあるものは、その問いの答えじゃ。だが答えを聞く前に、問いの意味を理解せねばならん。お前さんの鑑定眼が何であるか。それをまず、自分で考えてからじゃ」
「考えました。王都で、ずっと」
「ではもう少し考えろ。明後日、封印を解く。それまでに一つだけ調べてほしいことがある」
「何ですか」
「ユーリが山で拾った鉱石がある。あれに触れてみろ。話はそれからじゃ」
マティアスは茶の残りを飲み干した。
「茶の配合のことも訊きたいのだろう」
リーゼの心臓が跳ねた。
「はい」
「答えは封印の部屋の中にある。全ては繋がっておる。茶の配合も。お前さんの鑑定眼も。わしの罪も」
夕日がマティアスの白髪を赤く染めていた。老人の背中に、二十年分の影が落ちていた。
* * *
工房を出ると、ユーリが鍛冶場の前に座っていた。膝の上に革袋。中に鉱石が入っている。
「マティアスの爺さんに何か言われたか」
「この鉱石を調べろと。見せてもらえますか」
ユーリが革袋から鉱石を取り出した。拳大。黒みがかった灰色。表面に微かな紋様がある。風化で半ば消えかけているが、人の手によるものだ。
リーゼは手袋を外した。指先が鉱石に触れた。
冷たい。だが冷たさの奥に、微かな脈動がある。千年以上前の術式残留。グリュンタールの地下工房で感じたものより、遥かに古い。遥かに深い。マティアスの術式と同系統の波長だが、質が違う。もっと原始的で、もっと純粋。
「これは、どこで」
「シュヴァルツ山脈の北東斜面。鍛冶に使う鉄鉱石を探しに行ったとき、崖の崩落で露出した岩盤の中にあった。周囲の岩とは明らかに違う」
「鉄鉱石を探しに、こんな山奥まで?」
「いい鉱石は深いところにある。鍛冶師を甘く見るな」
リーゼは鉱石を返した。指先にまだ余韻が残っている。
「明日、詳しく調べさせてください」
「ああ。じゃあ明日、鍛冶場に来い。ついでに増幅器の調整もする」
「ついで、ですか」
「ついでだ」
ユーリが立ち上がり、鍛冶場の中に戻っていった。扉が閉まる前に、振り返った。
「リーゼ」
「はい」
「おかえり」
扉が閉まった。炉の音だけが残った。
リーゼは暮れていくグリュンタールの街を見渡した。屋根の向こうにシュヴァルツ山脈の稜線が見える。あの山のどこかに、千年前の秘密が眠っている。
懐の中の符牒が、微かに温かかった。




