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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
宮廷の偽りの秩序

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第37話 式典前夜

式典前日。宰相からの返答はなかった。


「動かないつもりか」


 カイの声に苛立ちが滲んでいた。リーゼの宿の部屋。窓の外では式典の飾り付けが進んでいる。王都の通りに旗が並び、花が飾られている。祝祭の準備と、その裏で進む政治の駆け引き。


「提案書を出して二日。検討すると言ったきり」


「宰相は迷っているのかもしれません。あるいは——伯爵と調整しているのか」


 その答えは、すぐに来た。


 宿の扉が激しくノックされた。エルヴィラが駆け込んできた。息が荒い。走ってきたらしい。いつも完璧に整えられたプラチナブロンドが少し乱れていた。エルヴィラのこんな姿は初めて見た。


「大変よ。ヴァルター伯爵が動いた」


「何があった」


「伯爵の私兵がリーゼの宿の周辺を嗅ぎ回っていた。鑑定部門の同僚が朝の出勤途中に見かけて、私に知らせてくれた。伯爵家の紋章が入った外套を着た男が3人、この宿の裏口と表口を交互に確認していた」


 カイの顔が険しくなった。


「伯爵が独自に排除を図っている。宰相が動かないから、自分で始末しようとしている」


「始末」


「あの男にとって、リーゼの存在は脅威だ。検証結果が公になれば偽造が発覚する。証拠を握っている人間を消すのが、最も確実な対処法だ」


 リーゼは鞄を開けた。ユーリの携帯用器具は、念のため宿の部屋ではなく別の場所に隠しておいた。昨夜カイに預けたのだ。


「器具は無事です。他の荷物は——」


「荷物より命だ。この宿を出る。今すぐ」


 カイがリーゼの腕を取り、裏口から宿を出た。路地裏を早足で歩く。エルヴィラが後ろに続く。朝の王都は行き交う人が多く、紛れるのは難しくない。


 調査機関の建物に着いた。カイが職員に指示を出し、控室に仮の寝泊まり場所を確保する。


「ここなら調査機関の管轄だ。伯爵の私兵も簡単には手を出せない。治外法権とまではいかないが、不法侵入すれば即座に逮捕できる」


「カイさん。式典は明日です」


「分かっている」


「式典の鑑定担当は、まだ決まっていません。通常は主席鑑定士が行う」


「つまりエルヴィラだ」


「私に変更する方法は?」


 エルヴィラが鞄から一枚の公式文書を取り出した。すでに署名がしてある。インクは乾いている。今朝書かれたものだ。


「即位記念式典における『祝福の鑑定』の担当者を、主席鑑定士エルヴィラ・フォン・ブリュッケからリーゼ・ヴェーバーに変更する。鑑定部門の業務上の判断に基づく措置であり、宰相府の追加承認は不要」


「エルヴィラさん。これは——」


「伯爵が動く前から準備していたの。あなたが式典に立つのが最善の方法よ。私にはできない。公開の場で宝冠に触れて真実を読む力は、あなたにしかない」


 リーゼは文書に手袋を外して触れた。インクの乾き具合から確かに今朝書かれたもの。だがエルヴィラの筆圧は安定していた。迷いのない署名。昨日や一昨日に迷って書き直したのではなく、覚悟を決めた上で一度で書いている。


「今度こそ、の意味が分かりました」


「分かっていたでしょう。最初から」


「いいえ。今、分かりました。あなたが審問の日に言えなかったこと。半年間ずっと抱えていたもの。それを、この文書に込めたんですね」


 エルヴィラが微笑んだ。初めて見る、隙のある笑顔だった。冷たい美しさの中に、温かさがあった。主席鑑定士の鎧を外した、一人の鑑定士の笑顔。


「明日。頼んだわよ」


「はい」


* * *


 式典の朝が来た。


 リーゼは第5等級の徽章を胸につけ、鑑定士の白いローブを纏った。グリュンタールではほとんど着なかった正装。襟元が少し窮屈だ。懐にはユーリの増幅器。使わないかもしれない。だがこの金属の温もりが、離れた場所にいる仲間の存在を思い出させてくれる。ポケットには再検証報告書。


 調査機関の建物を出た。王宮の大広間に向かう。


 半年前、この廊下を衛兵に腕を取られて歩いた。追放される鑑定士として。足の感覚がなかった。よろめいた。衛兵が「立てるか」と訊いた。


 今は自分の足で歩いている。一歩一歩、石の床を踏みしめている。


 大広間の扉が見えた。あの重い樫の扉。半年前、この扉の向こうで膝をついた。石の床は冷たかった。双翼獅子の紋章を、あんな角度から見上げたのは初めてだった。


 深呼吸した。石と蝋燭の匂い。広間の向こうから、楽団の調弦の音が微かに聞こえる。式典の準備が最後の仕上げに入っている。


 手袋を外した。


 指先が冷たい。朝の空気のせいだ。


 左手に、ユーリの増幅器の感触が残っている。右手の指先には、グリュンタールの土の記憶が残っている。半年間で触れた全てのものが、指の中に生きている。


 だが、震えてはいない。

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